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私は,ラケルよりレアが好き




「真実の愛」の陰に


クリスチャンの間では,聖書の創世記に記されているヤコブとラケルの物語は,「真実の愛の模範としてよく知られている。

それが単なる盲目の恋ではなく,「真実の愛」であった証拠としては,ヤコブがラケルの普段の生活を見,彼女の一番良い状態の時だけでなく,“一番悪い状態の時”も知っていて,それでもヤコブの彼女に対する愛情が変わらなかったこと。
また,ラケルを妻にもらえるのであれば,ラケルの父親のもとで「七年間」喜んで働くと宣言することができたこと,などがあげられる。もし,それが盲目の恋であったならば,それほど長く待つ(しかも,その間,二人は純潔を保った)ことなどできなかっただろうと思われるからだ。

聖書は,この二人の間にあった「」を,次のように表現している。

「こうしてヤコブはラケルのために七年間仕えたが,彼女に対する愛ゆえにそれは彼の目にほんの数日のようであった。」
-創世記29:20[新世界訳聖書]



確かに,この二人の物語は,「真実の愛」の模範であったろう。

しかし,この「真実の愛」の模範を考慮する際に,とかく忘れがちなことが一つある。それは,その二人の真実の愛の間でいつも寂しい思いをしていたもう一人の女性がいた,ということだ。

その女性の名前は,「レア」と言う。レアはラケルのお姉さんだが,実は,彼女もヤコブの「妻」だった。
聖書についてあまり知らない方は,ここで私の言ってる意味がよく分からなくなると思う。実は,今とは文化も習慣もまったく異なるこの時代には,「一夫多妻」という形態の結婚が一般的だったのだ。

だが,レアとラケルの場合には,これよりもさらに特殊な事情にあった。というのは,姉妹が,同じ男性(ヤコブ)と結婚したからだ。
これが,レアが傷ついてしまうすべての“原因”なわけだが,聖書は,こうした実例により,「一夫多妻」が家庭内に問題を引き起こすものであることを,今日の私たちに教えてくれている。





不幸せな結婚のはじまり


では,なぜ,ヤコブとラケルのいわゆる「真実の愛」の間にレアも入り,「一夫多妻」となってしまったのだろうか。少し,説明したいと思う。(クリスチャンは,その「経緯」をよく知ってるので,ご存じの方は,この部分は,無理に読んでいただかなくてもいい。)

ヤコブは,兄のエサウから「長男の権利」を奪い取ってしまったため,エサウは弟のヤコブに殺意を抱くようになり,そのため,ヤコブは,アブラハム(ヤコブの祖父)の兄弟ナホルの孫息子で,リベカ(ヤコブの母親)の兄であるラバン(ヤコブの伯父)が住んでいる東の国(「ハラン」または,「カラン」という国)に逃れることになる。(創世記25:29-3427:1-4528:529:14

そして,ハランのそばの井戸にたどり着いた時,ヤコブは,ラバン(ヤコブの伯父)の娘ラケルに出会う。(創世記29:2-12
こうして,ヤコブは,無事に伯父の家族と会うことができ,伯父の世話になって,その娘たちのレアやラケルとも,「一つ屋根の下で」一緒に暮らすことになる。つまり,レアもラケルも,ヤコブにとっては「いとこ」にあたる。

約一ヶ月間,伯父の家族と一緒に暮らした後のこと,ヤコブはラケルを愛しており,彼女と結婚したいと思っていることを伯父に打ち明ける。この時,ヤコブは,ラケルを妻にもらえるのであれば,伯父のもとで「七年間ただで働きます」と宣言した。(創世記29:18

ヤコブは,ラケルを愛した

: ギュスターヴ・ドレ(1832年-1883年)
Courtesy of: www.creationism.org



その「七年」もの間,ヤコブのラケルに対する愛は少しも衰えず,その年月は,ヤコブの目に「あっという間」であったと,先に引用した聖句は述べる。(創世記29:20
そして,その間,ヤコブとラケルの二人は,お互いに「純潔」を保った。(創世記29:21
これが,ヤコブとラケルの物語が「真実の愛」の模範と言われる所以である。


さて,約束の「七年」が「あっという間」に過ぎ,ヤコブは,晴れてラケルと「結婚」できる日となった。しかし,この時,問題が起きる。伯父がヤコブを欺いて,ラケル(次女)とレア(長女)をすり替えたのだ。(創世記29:22,23
ヤコブは,新婚初夜の朝,起きてビックリした。自分の隣に寝ているのが,愛するラケルではなく,レアだったからだ。
(相手が「朝まで分からなかった」というこの記述には,多少,不思議に思う部分もある。たぶん,当時の風習で,結婚相手の顔は見れなかったのか,あるいは,当時は,照明がないので分からなかったのか。詳細は不明。創世記24:65参照)

ヤコブは,伯父に「だまされた」ことを知り,伯父に猛烈に抗議するが,それに対して伯父は次のように釈明した。

「そのようにして年下の女を長女より先にやることはわたしたちの所の習慣ではない。この女のための一週を十分に祝いなさい。その後,このもうひとりの女も,あなたがわたしのもとであと七年仕えるその奉仕に対して与えられるだろう。」
-創世記29:26,27[新世界訳聖書]


伯父は,ラケル(次女)と引き換えに,さらに七年間(つまり,合計十四年間)働かせることを画策したのである。
(ヤコブは,ラケルとどうしても結婚したかったので,これに仕方なく同意するが,何十年も後に,ヤコブは,伯父が「ずるい人間」であったことを指摘する。創世記31:41,42


ラバンは,なぜ,ヤコブ(妹リベカの子)を「だます」ようなことをしてまで,長女のレアをヤコブと結婚させたいと思ったのだろうか。

これは,あくまでも私の想像であるが,レアも,もしかしたら,ヤコブのことが好きだったのではなかっただろうか
考えてもみてほしい。自分のところに,ある日突然,「独身の若い男性」がやってきて,七年間も自分たちと一緒に暮らしていたのだ。年頃の,しかも,未婚の女性であれば,その身近な男性のことを「まったく意識しない」ほうがおかしいのではないだろうか。
(しかも,今の時代以上に,この頃は,若い男性と「知り合う機会」も少なかったことだろう。)


こうしたことを考えると,おそらく,レアも,ヤコブのことが好きだったに違いないと私は思うわけだ。(もちろん,これは,あくまでも私の想像であるが・・・)
でなければ,父親のその,人を「だます」ような計画にのるようなことなどしなかっただろうと私は思う。

レアにとっては,ヤコブは,自分ではなく妹のラケルのほうを愛していることは,もう「百も承知していた」に違いない。でも,レアも,ヤコブのことが好きで,彼と結婚したいと思っていたのではなかっただろうか

ヤコブはラケルを愛していた。だから,「七年」もの間,そのために働いてきたのだ。一方,ヤコブはレアを愛してなどいない。そんなことは,レアは,もう十分わかっていた。わかっていた。だけど・・・。
レアは,ヤコブのその“態度”によって,自分が「愛されていない」ことを,まざまざと思い知らされた。自分の「好きな人に愛されないという辛さ」は,ほんの少しでも,そうした気持ちを味わったことのある人なら,きっと分かるだろうと私は思う。

その日の朝,自分と「一夜を共にした」(つまり,身も心も「一体」となった)はずの夫が,横に寝ているのがラケル(妹)ではないことに気づくと,すぐに天幕(家)を飛び出し,自分の父親のところに抗議しに行ったのである。
そこには,ぽつんと一人,天幕に取り残されたレアがいたたった独りでぽつんと

聖書には,その時のレアの「気持ち」や様子は一切書かれていない。
だが,私は思う。彼女の目からは,きっと,大粒の涙がほほを伝わり,床ベッドに落ちたのではないだろうかと。
その,だれもいなくなった寝床の上で・・・。たった独りで。

ひとりぼっちのレアが,そこで泣いていた


レアの不幸な結婚は,こうして始まった。





レアの容姿に関する誤解


ところで,聖書は,ヤコブが,ラケルが欲しいと伯父に述べた際に,ラケルとレアの「容姿」について言及し,次のように述べる。

「ところでラバンには二人の娘がいた。上のほうの名はレアといい,下のほうの名はラケルといった。
しかし,
「レニングラード写本」の創世記29章17節 - 旧約聖書ヘブライ語本文 -レアの目には輝きがなかったヘブライ語「ラク」; 「柔らかい」の意の変化形)のに対し,ラケルのほうは姿が美しく,顔だちも美しかった。」
-創世記29:16,17
[新世界訳聖書]
丸かっこ内の説明は,possibleによる挿入。


ラケルは,「姿が美しく,顔だちも美しかった」と聖書は述べる。

ヤコブは,あのハランのそばの井戸でラケルを一目見た時から,その「美しい容姿」に心惹かれたのではないだろうか。だからこそ,ラケルと出会ってから,わずか一ヶ月ほどで,「ラケルと結婚したい」と伯父に述べたのである。
これは,いわゆる「一目惚れ」というやつである。この段階では,まだ,盲目の恋と何ら変わりがない。


さて,それに対し,姉のレアのほうは,その「目には輝きがなかった」(「レアの目は弱々しかった」新改訳)と書かれている。

私は,この聖書の記述を素直に読んだ時,レアは,あまり美しい女性ではなかったのだろうと思った。
実際,「聖書に対する洞察」という聖書辞典には,レアのことが次のように説明されている。

レアは妹のラケルほど美しくありませんでした。特にその目には輝きがなかった,あるいはその目は鈍かった(弱かった)と述べられています。(創 29:17) 東洋の女性の場合,ぱっちりとした,あるいは輝く目は特に美しさの証拠とみなされています。―歌 1:154:97:4と比較。」
(「聖書に対する洞察」第二巻。ものみの塔聖書冊子協会,1994年。1203ページ。)


この点は,他の注解書でもほぼ同じだ。たとえば,「実用聖書注解」には,次のように書いてある。

「〈レアの目は弱々しかった〉(17).
原語では「弱い」よりはむしろ「柔らかい」.視力が弱いのではなく,目の輝きが弱く
魅惑的でなかったのだろう目が美しいのは美男美女の条件の1つと考えられていたようである(Tサム16:12雅4:19)」
(「実用聖書注解
いのちのことば社,1995年。)


レアはブスだったとでも言いたいのだろうか創世記29章17節 - 旧約聖書ヘブライ語本文 -

しかし,ここで,興味深い事実を指摘しておきたい。
新共同訳聖書」の創世記29章17節は,次のように訳されているのである。

レアは優しい目をしていたが,ラケルは顔も美しく,容姿も優れていた。」
-創世記29:17新共同訳聖書

創世記29章のヘブライ語本文インターリニア発音の仕方創世記29:17の,実際のユダヤ人のリズムある発音を聞いてみる


他の翻訳で,レアの目が「弱々しかった」(新改訳聖書),「輝きがなかった」(新世界訳聖書),「鈍かった」などと訳されているヘブライ語は,「ラク」という言葉である。
「ラク」は原形。ここでは,「ラク」という言葉の女性形複数の変化形「ラッコート」が用いられている。ストロングナンバーは,「07390」。
創世記29章17節全体の,ヘブライ語からローマ字への翻字は,以下のとおり。
Ve'eyney Leah rakot veRachel hayetah yefat-to'ar vifat mar'eh.


興味深いことに,ヘブライ語のこの形容詞には,「弱い」という意味の他に,「温和な」(英語“mild”)とか,「優しい」(英語“tender”)という意味もある。
だから,「ジェームズ王欽定訳聖書」では,この部分は,“tender eyed”と訳されている。
英語の“tender”にも,ヘブライ語と同様,「弱い」「虚弱な」という意味の他に,「優しい」とか「思いやりのある」という意味があり,“tender-eyed”と述べる場合には,「目の弱い」という意味の他に,「優しい目をした」という意味がある。


シュパイザーという人は,このヘブライ語の形容詞(「ラク」)の基本的な意味は,「優しさ」「デリケートさ」なので,レアは,

愛らしい目」を持っていた

という意味である,と述べている。
(「新聖書注解・旧約1」いのちのことば社,1976年。206ページ。)

だから,「今日の英語訳聖書」(「良いたより聖書(GNB)」)では,この聖句は,次のように訳されている。

Leah had lovely eyes, but Rachel was shapely and beautiful.”
 -GENESIS 29:17.TEV


そう。レアの目は「かわいかった」のだ。



GOD'S WORD”という聖書翻訳(1995年発行)では,創世記29章17節は,次のように訳されている。
Leah had attractive eyes, but Rachel had a beautiful figure and beautiful features.”

レアは,「青い目」をしていたこの,レアの「」に関しては,その意味は,“
soft blue eyes”と説明している注解書(“Jamieson Fausset Brown Bible Commentary”)もある。つまり,レアは,柔らかな「青い目」をしていたということだ。
それゆえ,創世記29章17節は,一般に言われている意見とはまさに「」のこと,つまり,「全体」の姿形(顔やスタイル)ではラケルの美しさにはかなわないが,特に,に関してだけはその部分に限って言えば),レアは美しい目をしていたという「誉め言葉」なのかもしれない。今日の日本人の感覚で言えば,外人の「
青い目」は,むしろ,あこがれである。)


それに,聖書の述べるとおり,人の本当の美しさは,顔やスタイルなどの外見“だけ”で決まるものではない
聖書には,こう書かれている。

「しかしエホバはサムエルに言われた,「その容姿や丈の高さを見てはならない。わたしは彼を退けたからである。[神の見るところは]人の見るところと異なるからだ。人は目に見えるものを見るが,エホバは心がどうかを見るからだ」。」
-サムエル第一16:7[新世界訳聖書]
麗しさは偽りであることがあり,美しさもむなしいものとなることがある。[しかし,]エホバを恐れる女は自分に称賛を得る。」
-箴言31:30[新世界訳聖書]
「そして,あなた方の飾りは,髪を編んだり,金の装飾を身に着けたり,外衣を着たりする外面のものであってはなりません。むしろ,もの静かで温和な霊という朽ちない[装い]をした,心の中の秘められた人[飾り]としなさい。それは神の目に大いに価値のあるものです。神に望みを置いた聖なる女たちも,先にはそのようにして身を飾り,自分の夫に服していたからです。」
-ペテロ第一3:3-5[新世界訳聖書]


これらの聖句にあるように,「心がどうか」を,また,「心の中の秘められた人」を見るならば,レアは非常に美しい人だった。

(スウェーデンボルグという人も,その著「天界の秘儀」の中で,美しさについて,こんな興味深い言葉を残している。

「霊的な「」とは,本質的には内的な真理への情愛です。また霊的な「外観」とは,本質的には信仰です。そのため,「外観が美しいとは,信仰の真理に対する情愛を意味しています。」
5199. Spiritual 'beauty' is essentially an affection for interior truth, while spiritual 'appearance' is essentially faith, so that 'beautiful in appearance' means an affection for the truth of faith,


この点で言えば,レアは,「外観が美しい」人であったろうと私は思う。)


むしろ,「美しいバラにはトゲがある」と昔からよく言うように,美しいラケルには,姉と比べて,「人格面での欠陥」が多々あったように私には思われる。たとえば,ラケルは,「ウソをつく」のが得意なようだ。(創世記31:1931-35
また,ラケルには,人の気持ちを思いやる心が,少し欠けているように私には思える。たぶん,「自己中」なところがあるのだろう。(創世記30:14,15





夫からうとまれていたレア


さて,ヤコブは,自分をだましたことで伯父に抗議し,「もう七年働く」ことを条件に,レアとの結婚式の後,ラケルとも結婚できた。(創世記29:25-28

こうして,ヤコブは,「同時に」複数の妻を持つことになる。いわゆる「一夫多妻」である。しかも,二人の妻は,姉妹という特殊な事情がある。その当然の結果として,ヤコブは,

ラケルに対してレアに対する以上の愛を示した

と聖書は述べている。(創世記29:30

さらに,聖書は,レアは,夫のヤコブから

うとまれて
(他の翻訳では,「きらわれて」「うとんじられて」)

いるのを神がご覧になった,と述べている。(創世記29:31


確かに,ヤコブとしては,「自分が愛したわけでもないレア(長女)」と,「七年間も想い続けて,さらに七年働くことを約束して,やっと結婚できたラケル(妹)」とでは,その愛情に「」が出てきてしまうのは,仕方なかったのかもしれない。
しかし,この聖書の記述を見て,レアがかわいそう」と思う人は多い。





愛されなかったレア


しかし,そんなヤコブの“冷たい態度”を見て,神は,夫から愛されていなかったレアに「子宝」を恵んだ。
やがてレアは,「男の子」を産む。聖書は,次のように記録している。

「エホバはレアのほうがうとまれているのをご覧になってヘブライ語「ラーアー」の変化形その胎をお開きになったが,ラケルのほうはうまずめであった。それでレアは妊娠して男の子を産み,その名をルベンヘブライ語「レウーヴェーン」。「見なさい,息子です!」の意。「ラーアー」(「見る」「分かる」「理解する」の意)の命令形と,「ベーン」(「息子」の意)を組み合わせた語)と呼んだ。「エホバがわたしの惨めさを見てくださったヘブライ語「ラーアーので,いま夫はわたしを愛してくれるようになるからヘブライ語“ye’ehavani”「イェエハーヴァニー」)」と彼女は言うのであった。」
-創世記29::31,32[新世界訳聖書]

丸かっこ内の説明は,possibleによる挿入。創世記29章のヘブライ語本文インターリニア発音の仕方


エホバは,レアが「うとまれているのをご覧になってその胎をお開きになった」と聖書は述べる。神は,あなたを気遣っておられる
そう。神は,私たちが,誰かから不当に嫌われたり,蔑まされたりする時,それを「ご覧になって」行動してくださる方なのだ。

神は,レアがうとまれているのを「ご覧に」なり,彼女に赤ちゃんができるようにしてくださった。
そして,レアは「男の子」を産み,その子に,「ルベン」という名前を付けた。その名前には,「見て,息子です!」という意味がある。

そこには,神が自分の惨めさを「見てくださった」ということだけでなく,夫が「わたしを愛してくれるようになる」というレアの期待も込められている。

: ここで,「私を愛してくれるようになる」と訳されているヘブライ語は,「愛する」という意味の動詞「アーハヴ」の変化形で,「イェエハーヴァニー」という言葉である。興味深いことに,JPSの“HEBREW-ENGLISH TANAKH”という翻訳の第二版(1999年発行)の脚注には,‘Heb. ye’ehabani, connected with the last part of “Reuben.”’と書いてある。
「ルベン」の「
ベン」と関連があるとのことであるが,「ベーン(息子)」と「アーハヴ(愛する)」に,それほど「意味的な関連」があるとは思われず,おそらく,ここでは,その「語形」(すなわち,子音字の「ベートb)」と「ヌーンn)」)で,お互いの言葉が関連づけられてるのだろうと思われる。
これは,
その変化形語形)」でないと関連が生まれてこない,高度で,しゃれた語呂合わせである。レアの「頭の良さ」を感じさせる部分である。


今こそ夫は,その胸に“愛する人の子”を抱く私のことも
見て見つめてくれるようになることを願ったのだ

私たちは,どんなに,人の「やさしい眼差し」を必要としていることだろうか。
妻は夫から,優しい眼差しで「見つめられる」ことが必要なのだ。

だが,レアの夫は,彼女を「見る」ことはなかった。

自分がどれほどオシャレをしても,綺麗に着飾っても,夫は,自分のほうに振り向いてはくれず,妹のラケルのほうばかりを見つめていた
レアが夫のほうに目を向けてみると,夫はいつもラケルを見つめていたそれを見るたびに,レアの心は深く傷ついた。
そんな夫を,いつもそばで見続けるということは,レアにとって非常に辛いことだったに違いない。

私には,その,夫の様子をいつも寂しそうに見つめ,自分は愛されていないのだと感じて,その場を離れ,誰もいないところで泣いているレアの姿が目に浮かぶ


さて,レアは,夫の子を十月十日も宿し,お腹を痛めて男の子(長男)を産んでも,夫から,まだ「うとまれて」いた。そこで神は,再び,彼女に赤ちゃんを与えてくださった。

「そして彼女は再び妊娠して男の子を産み,その後こう言った。「エホバは聴いてくださりヘブライ語「シャーマ」。「聞く」の意),わたしがうとまれていたのでこの子をも与えてくださったのです」。それで彼女はその名をシメオンヘブライ語「シムオーン」。「聞くこと」「聞いて」の意)と呼んだ。」
-創世記29:33[新世界訳聖書]

丸かっこ内の説明は,possibleによる挿入。創世記29章のヘブライ語本文インターリニア発音の仕方


神は,レアの願いを「聴いて」くださり,彼女がうとまれていたので,赤ちゃんを再び与えてくださった。だからレアは,その子の名前を「シメオン」と名付けた。シメオンとは,「聞いて」という意味である。

その名前には,神が「聴いてくださった」ということだけでなく,夫に聞いて!とレアが述べているようにも思える今度こそ夫は,その胸に二人目の赤ちゃんを抱く自分に注意を払い,彼女の話を聞いてくれるようになることを願ったのだ

私たちは,人に話を聞いてもらうことを,どれほど必要としているだろうか
妻は夫に,自分の話を聞いてもらうことが,そして,うんうん」「そうだねと言ってもらうことが必要なのだ
会社から帰ってきたら,今日一日,どんなことがあったのか,ただ,「聞いてもらいたいのだ。

だが,レアの夫は,彼女の話を「聞いて」あげることはなかった。
レアは,ヤコブに「見つめて」ほしかった。話を「聞いて」ほしかった。
でも,ヤコブは,レアを見ることも,また,聞くこともしない。
レアの心は,さらに深く傷ついた。





何をしても愛されない。
そして,「受ける愛」から「与える愛」へ


やがてレアは,三人目の「男の子」を産む。その時,レアはこう言った。

「そして彼女はまたも妊娠して男の子を産み,その後こう言った。「今度こそ夫はわたしと共になってくれるでしょうヘブライ語「ラーウァー」。「〜に連なる」「〜に愛着する」「結ぶ」の意)。わたしはあの人に三人も男の子を産んだのですから」。ゆえにその名はレビヘブライ語「レーウィー」。「固着」「共になった」「結びつく」の意)と呼ばれた。」
-創世記29:34[新世界訳聖書]

丸かっこ内の説明は,possibleによる挿入。創世記29章のヘブライ語本文インターリニア発音の仕方


レアは,三人目の子供の名前を「レビ」と名付けた。レビとは,「固着」「共になった」「結びつく」という意味である。
彼女は,その名前に,「今度こそ夫はわたしと共になってくれるでしょう」との願いを込めたのだ。夫と心が結ばれるように,固い愛の絆で結ばれることを願ったのだ

私たちは,どれほど,人との「結びつき」を必要としていることだろう。
特に,夫婦の場合には,固い愛の絆で結ばれる」必要がある。

しかし,レアの場合,夫のヤコブは,彼女を優しい眼差しで「見つめ」てあげることはなかった。
彼女の話を「聞いて」あげることもなかった。
そして,彼女と心が「結ばれる」こともなかった。

レアが妻として当然「必要」としていたものは,夫から受けることはなかった。
三人目の子供が生まれた時は,今度こそ,夫は,自分と「共になってくれる」ようになると期待した。
だが,今度も,そうはならなかった。


やがてレアには,四人目の「男の子」が産まれる。

「そして彼女はもう一度妊娠して男の子を産み,その後こう言った。「今わたしはエホバをたたえますヘブライ語「ヤーダー」の変化形。「感謝する」「賛美する」等の意)」。ゆえに彼女はその名をユダヘブライ語「イェフーダー」。「たたえられた」「称賛[の的]」の意)と呼んだ。そののち彼女は子を産まなくなった。」
-創世記29:35[新世界訳聖書]

丸かっこ内の説明は,possibleによる挿入。創世記29章のヘブライ語本文インターリニア発音の仕方


ユダ」。今度は,レアはそう名付けた。ユダとは,「たたえられた」という意味である。
この時,レアには変化が起きてきた。今までのレアとは少し違うのだ。
というのは,今までは,神に「願い求める」ものばかりだった。夫が「見て」くれること,「聞いて」くれること,また,夫と「結ばれる」ことを,子供の名前の意味に込めていた。
だが,今回は違う。今度は,神を「たたえ」始めたのだ。私は神を讃えます

夫が,自分を「見て」くれることも,「聞いて」くれることも,また,「結ばれる」こともなかった。自分は,未だ,夫から愛されてはいない。
状況(外面の世界)だけを見れば,以前と何も変わってはいない。だが,今度は,レアの「内面が変化したのだ。環境が変わったのではなく,彼女自身の心が変わり,下(自分の不幸)を見る変わりに,上(神)を見つめ始めたのだ。

そして,レアは,神に「求める」かわりに,今度は,神に「感謝」し,神を「賛美」した。
そして,その重大さは,その時には分からなかったものの,時代を経るごとに,だんだん分かってくる。というのは,このユダの部族から,あのダビデ王や,イエス・キリストが生まれてきたからである。

レアは,確かに,自分の夫からは「愛されなかった」かもしれない。
だが,神は・・・,そう,神は,彼女のことを愛していたのだ
レアは,自分のその「不幸な境遇」を通して,自分に対する「神の愛」に目を向け始めたのである。

それに,今や彼女は,もう「独りぼっち」ではなかった。
神の祝福により,レアが産んだ四人の子供たちが皆,お母さんのことを愛していたのだみんな,お母さんのことが,だい好きだった

レアには,その子たちが必要だったし,その子たちも,お母さんの愛情を必要としていた
お母さんは,その子たちのことを思うと,強くなった。





私はしあわせ者だわ


レアは,妻として自分に出来る精一杯のことを行なったが,彼女がどんなに夫に尽くそうとも,彼女が夫から「愛される」 ことはなかった。レアは,夫のヤコブを愛していたが,ヤコブは,レアよりも妹のラケルのほうを愛していた。
でも,けなげにも,レアは,自分に対する神の愛に目を向け始め,人の前では努めて明るく振る舞った。

レアは,自分が子供を産まなくなってからは,はしためのジルパをヤコブの妻として与え,彼女は,「ガド」と「アシェル」を産む。その時,レアはこう言った。

「やがて私は,しあわせレアのはしためジルパはヤコブに男の子を産んだ。そのときレアは,「幸運です!」と言った。それで彼女はその名をガドヘブライ語「ガード」。「幸運」の意)と呼んだ。その後レアのはしためジルパはヤコブに二人目の男の子を産んだ。そのときレアはこう言った。「幸せなことです! 娘たちはきっとわたしを幸せな者と言うのです」。それで彼女はその名をアシェルヘブライ語「アーシェール」。「幸せな」「幸せ」「幸福」の意)と呼んだ。」
-創世記30:10-13[新世界訳聖書]

丸かっこ内の説明は,possibleによる挿入。創世記30章のヘブライ語本文インターリニア発音の仕方


レアは,夫から「愛されていない」と感じているにもかかわらず, 「私はしあわせ者だわ」と言って,その子供に「しあわせ」という意味の名前を付けたのだ。


さらにその後,レアは再び妊娠して五人目の「男の子」を産み,その子に「イッサカル」という名前を付けた。(創世記30:17,18

そしてさらに,レアは六人目の「男の子」を産む。聖書は,その時のことを,こう記述している。

「レアがまたみごもり、ヤコブに六番目の男の子を産んだとき、レアは言った。「神は私に良い賜物ヘブライ語「ゼーヴェドを下さった。今度こそ夫は私を尊ぶだろうヘブライ語「ザーヴァル」の変化形。「尊ぶ」「高める」「あがめられて住む」の意)。私は彼に六人の子を産んだのだから。」そしてその子をゼブルンヘブライ語「ゼヴルーン)と名づけた。」
-創世記30:19,20 [新改訳聖書]

丸かっこ内の説明は,possibleによる挿入。創世記30章のヘブライ語本文インターリニア発音の仕方


レアは,六人目の子供の名前を「ゼブルン」と名付けた。
彼女は,その名前に,「今度こそ夫は私を尊ぶだろう」(このたび夫はわたしを(妻として)選んでくれるでしょう」セプトゥアギンタ訳)との願いを込めたのだ。

彼女の夫への願いは,最初に「ルベン」(長男)を産んだ時の,夫が「わたしを愛してくれるようになる」から,「私を尊ぶだろう」に変化していた。
確かに,ヤコブは,ラケルを愛するほどにはレアのことを愛さなかった(聖書の言い方では,「うとまれて」いた)かもしれない。しかし,今や,ヤコブはレアを,自分の「」として,心から「尊ぶ」ようになっていたに違いない。

さらに,レアは,「ディナ」という名前の「女の子」も生んだ。(創世記30:21
ヤコブの子供たちは,皆「男の子」ばかりだったから,ヤコブにとっては,レアが産んだ「たった一人の女の子」は,特に可愛かったことだろう。


さて,こうして,レアは,たくさんの子供に恵まれ,結局ヤコブの子供たちのうちの7人,すなわち,6人の男の子たち(「ルベン」「シメオン」「レビ」「ユダ」「イッサカル」「ゼブルン」。はしためのジルパが産んだ「ガド」と「アシェル」は含まず)と,一人の女の子(「ディナ」)の母親となった。(創世記29:32-3530:16-21

このうち,三人目の男の子(レビ)は,後に,イスラエルの「祭司の家系」となり,四人目の男の子(ユダ)は,メシア(イエス・キリスト)を生み出す「王の家系」となる。
こうして,神は,イスラエルの祭司の家系の両方が,ラケルではなく,レアから生み出されるようにされたのだ。





ヤコブは,ラケルとレアが亡くなった後も,ラケルを愛した


さて,長い年月が過ぎ,ヤコブがハランを去って生まれ故郷のカナンに戻ることとなった。その時,レアとラケルたちは,その子供たちと共にヤコブに同行した。(創世記31:11-18

その際,ヤコブは,自分に対して殺意を抱いた兄エサウに会う前に,安全を図って,子供たちをレアとラケル,および,そのはしためたちのもとに分け,一番手前に「はしためとその子供たち」を,次に「レアとその子供たち」を,そして,一番後ろに「ラケルとヨセフ」を置いた。(創世記33:1-7

これは,もし,エサウから攻撃された場合,そこが「最も安全」であると考えてのことと思われる。
こうして,この時も,ヤコブは,引き続きレアよりもラケルのほうを愛していることを示した

ヤコブたちは,しばらくスコトに住み,それからシェケム,最後にベテルと移り住んだ後,さらに南に向かった。そして,ベテルとベツレヘムの間のどこかで,ラケルは二番目の子供であるベニヤミンを産んだが,その際に亡くなり,そこに葬られた。(創世記33:17,1835:116-2048:7

しかし,ラケルが亡くなったあとも,ヤコブはラケルを愛していた
ヤコブは老齢になってもなお,亡くなったラケルを想い,ラケルこそ自分の正妻であったとし,彼女の子供を他のどの子供よりも大切にした。(創世記44:2027-29

その後,レアの子供たちは,ヤコブに同行してエジプトに入ったが,聖書の記述では,レアもそうしたとは述べられていない。(創世記46:15
聖書は,レアが死んだ時や場所,状況などは一切記していないが,彼女も「カナンの地」のどこかで亡くなったものと思われる。しかし,レアの遺体は,家族の埋葬所である「マクペラの畑地にある洞くつ」に葬られた。(創世記23:2025:949:3050:13

こうして,ヤコブが「愛した」ラケルも,彼が「うとんだ」レアも,夫のヤコブよりも先に亡くなった。
しかし,二人の妻が亡くなった後も,ヤコブがヨセフ(ラケルの子)に語った言葉は,ラケルに対するヤコブの愛情の深さを伝えている。(創世記48:1-7





ついに夫の愛を勝ち取る


しかし,ヤコブが亡くなる直前に変化がおきる。
聖書は,ヤコブが,子供たちへの最後の「遺言」として,こう述べたことを記している。

「「わしはじき死ぬ。そうしたら,カナンの地に葬ってくれ。マムレに面したマクペラの野にあるほら穴を知っているだろう。おまえたちのひいじいさんのアブラハムが,墓地にしようと,ヘテ人エフロンから買ったあの土地だ。それ以来,代々一族の墓として使われてきた。
わしもレアをそこに葬った。いいな。必ずあそこへ葬ってくれよ。
もう思い残すことはありません。安心して床につくと,息を引き取りました。」
創世記49:29-33[リビングバイブル]


ヤコブは死に臨んで,「マクペラの野にあるほら穴」(「マクペラの畑地にある洞くつ」)に自分を葬ってくれるように頼んだ。
「マクペラの野にあるほら穴」とは,アブラハムが妻サラを葬るとき,ヘテ人から買い取った土地であり,アブラハムもここに葬られた。
アブラハムの子イサクも,イサクの妻リベカも,ここに葬られた。(創世記49:31
このように,「マクペラの野にあるほら穴」は,歴代のイスラエルの族長が葬られる場所となった。

そして,すでに言及したとおり,ヤコブは,この「マムレに面したマクペラの野にあるほら穴」に,実は,レアも葬ったのである。(創世記49:31
それに対し,ラケルは「マクペラの野にあるほら穴」には葬られていない。(創世記35:19,2048:7 地図。「ラケルの墓」の写真
これはヤコブの妻レアに対する「尊敬」の表われである。

この記述に関して,M. ベッコンは,女性の立場から,こう述べている。

「聖書の人物の何人かに,他の人物に増して多くの関心を持つことがないでしょうか。どうしたわけか,私はレアに特別な関心を抱きつづけてきました。たぶんそれは,レアは犠牲者ではないかと思えたからです。
ある日,創世記四九章三一節を読んで,
ヤコブがレアのかたわらに葬られるよう願ったことを知ったとき,私は心の中でこう叫びました。
おめでとう,レア! あなたは,とうとうヤコブの心を射とめたのです。ヤコブはついに,尊敬と栄誉をあなたに与えたのです〉」
(M. ベッコン著「足もとにすわって」伝道出版社,1986年。116ページ。)


そう。レアは,最後の最後に,夫の「心を射とめた」のだ!(ペテロ第一3:1,2

私も,レアに,こう言ってあげたい。

レア,本当によかったねおめでとう!

と。


レアは,生きてる間,夫から「愛される」ということはなかった。
それゆえに,レアは,「人の心の痛み」の分かる,本当に心の「優しい」女性だった。

レア
私は,ラケルより,あなたのことが好きです


(ヤコブとレアが眠っているとされる場所の写真レアの墓
モスクの中に,アブラハムとサラ,イサクとリベカ,そして,ヤコブとレアの「からの棺」がある。地下の「マクペラの洞穴」には,それぞれの墓があると言われる。現在,この場所は,アラブ人とユダヤ人共用の聖所。)






ここで主に用いられている聖句は,特に注記がない限り,「新世界訳聖書」(ものみの塔聖書冊子協会,1985年)からの引用です。


































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