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マグダラのマリア(マリア・マグダレネ)は,イエスのことが好きだったのか




「マグダラ」と呼ばれたマリア


新約聖書には,「マリア」(または,「マリヤ」。英語“Mary”「メアリ」)という同じ名前の女性が,少なくとも六人は登場する。(脚注1

一人目のマリアは,もちろん,あの有名なイエス・キリストの母マリアである。(あまりにも有名で,新約聖書にも頻繁に登場するので,ここでは,あえて聖句は参照しない。
二人目は,マルタとラザロの姉妹であるマリア。(ルカ10:38-42
三人目は,「もう一方のマリア」。(マタイ27:5661ヨハネ19:25
四人目は,ヨハネ・マルコの母マリア。(使徒12:12
五人目は,ローマのマリア。(ローマ16:6

そして,六人目が,これから話をしようとしてる,「マグダレネ」(マグダラ)とも呼ばれるマリア(マリア・マグダレネマグダラのマリア)」。英語“Mary Magdalene”「メアリ・マグダリーン」)である。

(カルロ・ドルチ画「マグダラのマリア(マリヤ)」(1660-70年))


この「マグダレネ」(脚注2)の意味については,様々な説明がなされているが,「聖書に対する洞察」という聖書辞典では,この点に関して,次のように説明されている。

「その特徴ある姓(「マグダラの(マグダラに属する)」の意)は,ガリラヤの海の西岸にあり,カペルナウムとティベリアのほぼ中間に位置するマグダラ(「マガダン」を参照)という町に由来すると思われます。イエスはその周辺の地域で多くの時を過ごされましたが,この町を訪れたという記録はありません。また,そこがマリアの故郷もしくは居住地であったということも定かではありません。ルカが彼女を「マグダレネと呼ばれるマリア」と言っているので,中にはルカが特別な,もしくは特殊な何事かをほのめかしていたと考える人もいます。―ルカ8:2。」

「聖書に対する洞察」第二巻。ものみの塔聖書冊子協会,1994年。898ページ。






「罪深い女」と誤解された美しい人


さて,このマリア・マグダレネマグダラのマリア)は,しばしば,ルカによる福音書の7章に出てくる「罪深い女」(つまり,多くの男と性的な関係を持っていた女性)と“混同”され,絵画でも,その罪から「改悛する」女性として描かれていムリーリョ画「改悛するマグダラのマリア」たりするものが多い。(ルカ 7:36‐50

(フセペ・デ・リベーラ画「改悛するマグダラのマリア」(1641年)
 エミール・マールは,リベーラのこの作品に描かれているマリア・マグダレネ(マグダラのマリア)のことを「
彼女の美しさはこの世から隔たっており,美よりもさらに格調高い気品を持っている」と評した。

ムリーリョ画 「マリア・マグダレネ(マグダラのマリア)」(1650-55年))



それはそれで,人の心を動かす感動的な話だし,絵画も非常に美しく素晴らしいと思うのだが,いのちのことば社の「新聖書辞典」には,

「一般に,彼女は遊女であったという説があるが,ルカ7:37の「罪深い女」と混同すべきでな)」

新聖書辞典」いのちのことば社,1985年。1201ページ。

と,はっきり書かれている。(脚注3

新約聖書を読んで,そこからはっきり分かることは,彼女は,イエス・キリストによって七つの悪霊を追い出してもらった女性であり,イエスが杭に掛けられていた時にその「そば」にいたこと,また,イエスの復活の最初の目撃証人となった女性である,ということくらいである。





大ぜいの女たち


新約聖書の中で,このマリア・マグダレネ(マグダラのマリア)という名前の女性に“初めて”言及がなされるのは,イエス・キリストが伝道を始めてから二年目の記述の中においてである。
そこには,こんなふうに書かれている。

「その後まもなく,[イエス]は,都市から都市,村から村へと旅をされ,神の王国の良いたよりを宣べ伝えまた宣明された。そして十二人は彼と一緒におり,邪悪な霊たちや病気を除いてもらった女たち,七つの悪霊が出て来た,マグダレネと呼ばれるマリア,ヘロデ[家]の管理人クーザの妻ヨハンナ,そしてスザンナおよびほかの多くの女たち,これらの者が自分の持ち物をもって彼らに奉仕をしていた。」
-ルカ8:1-3。[新世界訳聖書]


イエス・キリストは,使徒たちと共に,ガリラヤでの二回目の伝道旅行をし,神の王国の良いたよりを宣べ伝えていたが,マリア・マグダレネ(マグダラのマリア)は,他の「多くの女たち」(「大ぜいの女たち」新改訳)と共に,自分の持ち物をもって「彼ら」(イエス・キリストと十二使徒)の必要のために仕えていたようだ。
大ぜいの」(脚注4)というくらいだから,いったいどれほど「多くの」女性がいたのだろうか。

イエスの行く先々には,全員男の十二使徒だけでなく,これら,名前のあげられていない「大ぜいの女たち」(キリスト教的な言い方では,「姉妹たち」)が,いつもそばにいて,彼らに「奉仕」(脚注5)をしていたのである。

マリアも,それら「大ぜいの女たち」の中の一人だったわけである。
しかし,イエスの周りに常にいたであろうこれら「大ぜいの女たち」のうち,最も印象的に引用されるのは,彼女(マグダラのマリア)である。


さて,その記述の中で,マリア・マグダレネ(マグダラのマリア)のことが,

七つの悪霊が出て来た,マグダレネと呼ばれるマリア」
-ルカ8:2。[新世界訳聖書]

と説明されているわけだが,この,「七つの悪霊が出てきた」ということの意味については,様々な説明が試みられている。

私が一番納得のいく説明は,ここで言う「七」というのは,数ではなく「量」あるいは「質」を示し,それゆえ,ここでは「非常に多くの」という意味を持ち,彼女は「悪質の病」もしくは,「重い精神病」をいやされたのであろう,というものである。

(「新聖書辞典」いのちのことば社,1985年。1201ページ。 「マグダラのマリア無限の愛」岩波書店,1996年。310ページ。松本富士雄,石原綱成著「マグダラのマリアの図像学--聖と俗と美のはざまで--」。)


その「悪質の病」あるいは,「重い精神病」は,マリアにとって,どれほど辛かったことだろう。

どれほど長く,その「病気」と闘ってきたのであろうか。
しかし,それをイエスは,いやしてくれたのだ! 
マリアは,それが,どれほど嬉しかっただろうか。

だから,マリアをその「奉仕」へと突き動かしたものは,病から解放された深い喜びと,“感謝の心”だったに違いない。
そして,自分と同じように「悪質の病」あるいは「重い精神病」で苦しんでいるかもしれない他の人たちも,「自分と同様に,いやされた喜びを経験してほしい」との願いから,彼女もその「奉仕」へと加わったのであろう。





イエスの「伴侶」
(「フィリポによる福音書」より)


ところで,1945年(昭和20年)の12月,エジプト南部に位置するナイル河畔の町,ナグ・ハマディ付近で,あるアラブ人農夫(ムハンマド・アリ・アッサンマン)によって,一般に「ナグ・ハマディ文書」と呼ばれる13冊のコーデックス(冊子本)が発見された。(脚注6

その「ナグ・ハマディ文書」第Ⅱ写本(コーデックスⅡ)の第三文書の中に,

フィリポによる福音書

と呼ばれているものが含まれていた。(脚注7

この,コプト語で書かれた「フィリポによる福音書」の中に,たいへん興味深いことが書かれているので,今話題にしてること(「マリア・マグダレネ(マグダラのマリア)は,イエスのことが好きだったのか」という主題)とも少し関係があると思うので,参考までに,ここに少し引用してみたいと思う。


以下は,コプト語による「フィリポによる福音書」の言葉を,「英語」と「日本語」に訳したものである。
こう書かれている。

“There were three who always walked with the Lord: Mary, his mother, and her sister, and Magdalene, the one who was called his companion. His sister and his mother and his companion were each a Mary.”
http://www.gnosis.org/naghamm/gop.html
「三人の者がいつも主と共に歩んでいた。それは彼の母マリヤと彼女の姉(妹)と彼の伴侶と呼ばれていたマグダレネーであった。なぜなら,彼の姉(妹)と彼の母と彼の同伴者はそれぞれマリヤ(という名前)だからである。」

フィリポによる福音書§32
ナグ・ハマディ文書〈2〉福音書」岩波書店,1998年。68ページ。


また,同じ「フィリポによる福音書」には,こうも書かれている。

“As for the Wisdom who is called "the barren," she is the mother of the angels. And the companion of the [...] Mary Magdalene.

[...] loved her more than all the disciples, and used to kiss her often on her mouth. The rest of the disciples [...]. They said to him "Why do you love her more than all of us?" The Savior answered and said to them,"Why do I not love you like her?"”

http://www.gnosis.org/naghamm/gop.html
「不妊の女と呼ばれるソフィアは[天]使たちの母である。そしてキリスト同伴者はマ[グ]ダラの[マリ]ヤである

主はリヤすべてのたちよりも愛していた。[そして彼女の口にしばしば接吻した他の弟子たちは彼がマリを愛しているのを見た。] 彼らは彼に言った,「あなたはなぜ,私たちすべてよりも」[彼女を愛]されるのですか」。救い主は答えた。彼は彼らに言った,《彼は彼らに言った》「なぜ,私は君たちを彼女のように愛さないのだろうか」。」

フィリポによる福音書§55a§55b
ナグ・ハマディ文書〈2〉福音書」岩波書店,1998年。76ページ。


(文中の角カッコ[ ]は,写本の損傷された本文を,原文の校訂者または訳者が推定復元した読み。 また,丸カッコ( )は,文意を取り易くするために,訳者が挿入した補充。 《 》は,写本の写字生が重複して書き写したと思われる文あるいは単語。)



「フィリポによる福音書」(コプト語)の伝える,マグダラのマリアと,イエスの関係


この「フィリポによる福音書」は,たいへん興味深く,ものすごく「刺激的な内容」の文書ではないだろうか。
イエス・キリストには,マリア・マグダレネマグダラのマリア)という名の「伴侶」(「同伴者」)がいて,彼は

彼女の口にしばしば接吻した」 (* ̄(     )チュウウウウゥゥ~

というのだから・・・。(脚注8

これは,イエス・キリストが「結婚」していたという意味なのだろうか。
あるいは,そうなのかもしれない。

しかし,「フィリポによる福音書」には,明確に,二人が「結婚」していた,あるいは,イエス・キリストが「」,マリア・マグダレネ(マグダラのマリア)が「」であったという記述は出てこない。(脚注9

ただ分かるのは,キリストと呼ばれたイエスには,「マリア・マグダレネマグダラのマリア」という名の「伴侶」がいて,「彼女の口にしばしば接吻(キス)した」こと。チュッ (*  ̄)( ̄ *) チュッ♪
そして,イエスは,他のすべての弟子たちよりも,彼女を「愛していた」ということだけだ。(脚注10





「花嫁」とは誰か


では,「正典」である新約聖書は,イエス・キリストが「結婚」していたかどうかについて,何か述べているだろうか。

新約聖書(以下,単に,「聖書」と略す)によれば,イエス・キリストは,「享年33歳」という若さで亡くなっていることが分かる。
聖書についてまったく知らない人は,キリスト教の創始者は,案外若く,「青年」であったということに驚くかもしれない。

さて,聖書からは,その「青年教師」であったイエスが,誰かと「結婚していた」という“明確な”証拠は得られない。したがって,恐らくではあるが,彼は,生涯「独身」であったろうと思われる。


だが,興味深いことに,聖書には,イエス・キリストの「婚宴」や「結婚」について,また,イエス・キリストを「」と述べてる箇所も,幾つかあることもまた事実である。(マタイ22:2コリント第二11:2エフェソス5:25啓示19:7-921:29

また,イエス・キリストは,聖書の中では,しばしば「花婿」と呼ばれている。(マタイ 9:1525:1-12マルコ2:19,20ルカ5:34,35
例えば,バプテスマを施す人ヨハネは,こう述べている。

花嫁を持つ者花婿です。しかし,花婿の友人は,立って彼[のことば]を聞くと,その花婿の声に一方ならぬ喜びを抱きます。そのようなわけで,わたしのこの喜びは満たされているのです。」
-ヨハネ3:29。[新世界訳聖書]


イエス・キリストは「花婿」だから,「花嫁を持つ者」と,ヨハネは,ここで“はっきりと”述べているのである。(脚注11


さて,もし,キリストが「花嫁を持っている」のであれば,では,「その花嫁は誰か」という疑問が当然生じてくる。
それで,ある人々が,このキリストが“持っている”「花嫁」いうのは,マリア・マグダレネ(マグダラのマリア)のことである,と「解釈」したとしても,それほどおかしなことでもない。(イエスの周りには,常に,「大ぜいの女たち」がいたことは,すでに言及したとおりである。

それゆえ,フランス文化放送のプロデューサー,ジャクリーヌ・クランは,こう述べている。

「キリストの先駆者(洗礼者)ヨハネは純潔かつ孤独な苦行者であるが,彼は衰弱し,イエスに地位を譲るまえに,自分を花婿ではなく(花婿とは花嫁を持つ者),「花婿の友人」であると定義した(ヨハネ福音書三27以下)。それならばなぜ,イエスのかたわらにいるマグダラのマリアを彼の花嫁と認めないのだろう
イエスの周囲にいる女性たちのうちもっとも印象的に引用されるのは彼女である。」

ジャクリーヌ・クラン著「マグダラのマリア無限の愛」岩波書店,1996年。7,8ページ。


しかし,クリスチャンにとっては,イエス・キリストは「神の御子」である。(ある人たちにとっては,「神[ご自身]」である。)

そのキリストが,この地上にいた時に「結婚していた」と考えるのは,キリスト教徒である人たちにとっては,大変抵抗があるもののようで,例えば,1988年に作られた,マーティン・スコセッシ監督の「最後の誘惑」という映画(原作は,ギリシャ正教の作家カザンザキスの小説)では,はりつけにされたイエスが,マリア・マグダレネマグダラのマリアとの結婚生活を夢想するという衝撃的な場面が出てくるが,しかし,それは,あくまでも「夢想」で終わっている。
実際には,その「誘惑」つまり,マリア・マグダレネ(マグダラのマリア)と「結婚」して子供をもうけ,最後は,普通の人間として死ぬという「誘惑」は“退けた”形になっている。

本来,「フィクション」である小説や映画でも,イエス・キリストとマリア・マグダレネ(マグダラのマリア)が,実際に「結婚していた」とまでは描けなかった,ということであろう。実際,アメリカでは,この映画に対して,「上映反対」のデモ騒ぎまで起きたらしい。





イエスの胸によりかかって


また,2006年に封切られた,ロン・ハワード監督の「ダ・ヴィンチ・コード」という映画(トム・ハンクス主演。原作は,2003年に出版された,ダン・ブラウンによる,同名のベストセラー小説)には,レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」で,キリストの右隣(向かって左側)にいる女性らしき人は,使徒ヨハネではなく,マリア・マグダレネマグダラのマリアであるとする説が紹介されている。

(レオナルド・ダ・ヴィンチ画「最後の晩餐」(1495-1498年)
 高解像度での画像は,ここ。)

この「最後の晩餐」の絵は,聖書の「ヨハネによる福音書」をもとに描かれてるとのことだが,その福音書には,問題の人物(絵では,イエス・キリストの右隣の人)について,次のように描写している。

「弟子たちのひとりで,イエスの愛しておられた者が,み胸に近く席についていた。そこで,シモン・ペテロは彼に合図をして言った,「だれのことをおっしゃったのか,知らせてくれ」。その弟子はそのままイエスの胸によりかかって,「主よ,だれのことですか」と尋ねると,」
-ヨハネ13:23-25。[口語訳聖書]


さて,この,名前のあげられていない「イエスの愛しておられた弟子」とは,伝統的には「使徒ヨハネ」であると解釈されてきたわけであるが,しかし,この弟子は,実は「女性」であったと考えると,「なるほどなぁ~」と納得する部分も,確かにあることはある。
なぜなら,男同士にしては,“あまりにも親し過ぎる”という印象を受けるからだ。(「イエスの胸によりかかって」というあたり。)



もちろん,使徒ヨハネが,この時はまだ「少年」(精神的には,子供)で,年上のイエス(この時のイエスの年齢は,およそ33歳)に,「兄」のような気持ちで“甘えている”(イエスも,それを許した)ととらえるのが自然なのかもしれない。

だが,ここに描かれている弟子が,実は,「女性」だった(「マリア・マグダレネ(マグダラのマリア)」だった)と言われても,私個人は,それほど違和感は感じない。むしろ,「それだったら,素晴らしいな」とさえ,わ・た・し・は・思う。

Painting from Haderslev Domkirke, Denmark Last supper
 高解像度での画像は,ここ。)






I LOVE YOU (アイ・ラブ・ユー)


実際,イエス・キリストの行くところには,いつも「多くの女たち」がいて,イエスに仕えていたのである。(ルカ8:1-3
そして,「大勢の女たち」が,ガリラヤからエルサレムまで,イエスにずっと付き従ってきたのである。(マタイ27:55,56マルコ15:40,41

イエス・キリストが「結婚」していたかどうかは別として,イエスの周りに常にいたであろう,これら「大勢の女たち」の中の,ある特定の女性に対して,「人間」イエスが,何か“特別な愛情”を抱いたとしても,いったい何の不思議があろう。(そのほうが,とても「人間らしい」。)

それに,誰かを好き」になるという気持ちは,本当に尊く,素晴らしいことではないだろうか。(それが,その人を「成長」させてくれるのである。)

仮に,その時は,一人の「人間」であり,「男」であったイエスが,ある女性のことが本気で「好き」になり,「愛していた」としたら,それが,「神の子」の地位からイエスを引き下げることになるのであろうか。(ある人たちは,そう考えるから「反対」するのであろう。)
だが,神の御子が,一人の人間である女性に対して,そのような感情を抱いたとしたなら,むしろ,それは,「素晴らしいこと」なのではないのか。(ヘブライ2:184:155:8コリント第二1:4箴言8:31後半)

それに,イエス・キリストは,人々に「」について教えなかったか。

また,私たちに対して,

I love you

と言ってくれなかったか。
(「イエスからのラブレター」という記事を参照。)


人々にこのようなを教えていながらたった一人の女性のことも本気で愛せない人物だったのだろうか

いや。むしろ,ある人たちが言うように,イエス・キリストが,あれほどまでに「」(しかも,誰かのために自分を「犠牲」にできるほどの本当の愛)について人々に教えることができたのは,彼自身,それだけ“情熱的”な人間であり,極めて情熱的な恋をしていたからこそできたのではないだろうか。

実際33年間も生きてきて(イエスは,享年33歳で亡くなった),一度も女性にをしたこともないような男に,「が語れるだろうか。(私たちは,そんな人間から,「愛」について教えていただきたいと思うだろうか。)





ずっと「そば」にいた


実際には,聖書は,イエス・キリストとマリア・マグダレネ(マグダラのマリア)との間に,他の弟子たちとの間にはない,何か「特別なもの」があったのかもしれないことを示唆しているように,わ・た・し・に・は・思える。

例えば,イエス・キリストが,杭に掛けられるために引かれて行く時,イエスに仕えるためガリラヤから付いて来て,イエスが杭に掛けられるのを,“やや離れた所で見ていた”「大勢の女たち」(ルカ23:49)がいたことを聖書は伝えているが,興味深いことに,その中の4人の女性は,イエスの「そば」に,ずっといたのである。
聖書は,そのことを,こう伝えている。

「しかしながら,イエスの苦しみの杭のそばには,その母と,母の姉妹,[そして]クロパの妻マリアとマリア・マグダレネが立っていた。」
-ヨハネ19:25。[新世界訳聖書]


他の大勢の女たちが,「やや離れた所で見ていた」のに対し,マリア・マグダレネ(マグダラのマリア)は,その「そば」(「傍ら」文語訳; 「わき」塚本訳)にいたということに,何か「特別なもの」を感じないだろうか。(脚注12
ちなみに,ここに名前があげられている4人の女性たちの中で,「独身」の女性は,マリア・マグダレネ(マグダラのマリア)“だけ”である。



イエス・キリストが処刑されていた,まさにその時,マリア・マグダレネ(マグダラのマリア)は,イエスの「そば」(傍ら)にいて,その場から離れないでいるのである。

これは,よく考えてみれば(よく考えなくても),はっきり言って,尋常ではない
というのは,この時イエス・キリストの他の弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げてしまっていたからである。(マルコ14:50
当然,そんな人たちが,イエスの処刑場所に近づくはずもない。(ヨハネ20:19

しかし,そうした状況の中でマリア・マグダレネ(マグダラのマリア)という女性は何者をも怖れずイエスのすぐそば」(傍ら)に,ずっととどまっていたのだ!

これを,どう説明したらいいのだろうか。
これは,マリアの信仰が他の弟子たちよりも「強かった」とか,あるいは,「勇気があった」からだとか,ただそれだけの理由でできたのだろうか。
いいや。わたしには,それだけではないように思える。

イエス・キリストが,杭に掛けられて苦しみ,まさに死のうとしていたその瞬間,マリア・マグダレネ(マグダラのマリア)は,イエスのそば」(傍らにずっといたという事実に,あ・な・た・も,何か「特別なもの」を感じはしないだろうか。





声をあげて泣いていた


さらに,イエス・キリストとマリア・マグダレネ(マグダラのマリア)との間には,他の弟子たちとの間にはない,何か「特別なもの」があったのかもしれないと感じさせるものが,他にもある。

例えば,イエスが亡くなってから三日後のマリア・マグダレネ(マグダラのマリア)の様子である。

イエスの埋葬後,マリア・マグダレネは,安息日の後,週の最初の日の夜明けに,香油を墓に携えて行った。(マタイ28:1マルコ15:4716:1,2ルカ23:55,5624:1

(彼女が,なぜ「香油」を墓に携えて行ったのかと言うと,イエスの遺体に香料を塗るためだ。イエスの埋葬が急いで行なわれたため,遺体を「より長く保存する手段」として,もっときちんと処理を行なうために,そのようにしたと考えられる。)

しかし,墓に行ってみると,墓は開いていて,中が空っぽになっていたのである。

そのことを,マリアは,急いでペテロとヨハネに伝えた。それで,ペテロとヨハネは墓へ走って行き,自分の目でそのことを確認した。(ヨハネ20:1-10

マリアがもう一度,墓に戻った時には,ペテロとヨハネはすでに立ち去っていた後だった。
その時のマリアの様子について,聖書は,こう述べている。

「しかしながら,マリアは外で,記念の墓の近くに立ったまま泣いていた。」
-ヨハネ20:11。[新世界訳聖書]


興味深いことに,ここで,「泣いていた」と訳されてるギリシャ語は,ごく普通に「涙を流していた」という意味ではない。
実は,「声をあげて泣いていた」あるいは,「泣き叫んでいた」という意味なのである。(脚注13

今,この時のマリアの様子を,「絵文字」にして表現してみれば,

。・°°・(((p(≧□≦)q)))・°°・。ウワーン!!

という感じになるであろうか。


どうか,今,この聖句をじっくりと考え,その時の“情景”を「想像」してみてほしい。
一人の若い女性が,イエスの墓の近くで,「声をあげて泣いていた」のである。
しかも,「立ったまま」。

仮に,あなたが,その亡くなった男性の立場であったとして,自分のためにそんなにも泣いてくれる女性がいたらあなたはどう思うだろうか

私は,その情景をただ想像するだけで,マリア・マグダレネ(マグダラのマリア)という人は,本当に「魅力的」な女性だったんだろうなって思うし,復活したイエス・キリストと同じ視点から彼女を見る時,彼女に対する「愛情」も感じるのだ。
だから,私はこう思うのだ。イエスも,きっと,彼女に対する「愛情」を感じたに違いない,と。





“一番最初に”現れた


さて,その後の様子について,聖書は,次のように伝えている。

「しかしながら,マリアは外で,記念の墓の近くに立ったまま泣いていた。そして,泣きながら,記念の墓の中をのぞこうとして前方にかがむと,白衣の二人のみ使いが,イエスの体の置いてあった所に,一人は頭のところ,一人は足のところに座っているのが目にとまった。すると彼らが言った,「婦人よ,なぜ泣いているのですか」。彼女は言った,「人々がわたしの主を取り去ってしまい,どこに置いたのか分からないのです」。こう言ったあと,彼女が振り返ると,イエスの立っておられるのが目にとまったが,彼女はそれがイエスであることを悟らなかった。」
-ヨハネ 20:11-14。[新世界訳聖書]


この記述から,イエス・キリストの側も,マリア・マグダレネ(マグダラのマリア)のことを「愛していた」ように私には思える。
というのは,(当時の)ユダヤ教では,「女性は法律上の証人となる値打ちがない」とみなされていたからだ。

そのような文化(伝統)の中では,イエスは,ペテロやヨハネ,また他のだれか「男性の」弟子たちの一人に,まず現われることができただろう。
しかし,イエスはそうはされず,マリア・マグダレネ(マグダラのマリア)という女性を,自分の復活の“最初の”「目撃証人」とし,その事について「男性の」弟子たちに証しする務めをゆだねたのだ。

少し,考えてみてほしい。
仮に
あなたがイエスのように生き返ったとして自分が復活したことを一番最初に誰に知らせたいと思うだろうか


両親。友達。あるいは,恋人だろうか。
その答えは,人によって,ぞれぞれ違うだろうと思うが,しかし,人は普通,「一番大切に思ってる人」のところに,“まず最初に”行って,そのことを“真っ先に”伝えたいと思うことだろう。

そのように考えてから,イエス・キリストが最初に会うと決めた(選んだ)のは,誰だったのかと考えてみてほしい。
イエスの場合,母親のマリアでもなく,男性の十二使徒でもなく,マリア・マグダレネ(マグダラのマリア)という女性に,“一番最初に自分の姿を見せたいと思ったのである。
自分は復活して「生きている」という情報を,“真っ先に”伝えたいと思ったのは,彼女だったのである。

この情報一つからでも,イエスがマリア・マグダレネ(マグダラのマリア)のことを,「どれほど大切に思ってるのか」が分かるのではないだろうか。
イエス・キリストのその「態度」(行動)を見れば,イエスの「心にあるもの」が分かるのだ。





クレオパトラを呼ぶのに用いた「尊称」で


さて,マリアが悲しんでいる様子を見て,イエス・キリストは彼女に何と語りかけたのであろうか。
聖書は,イエスがマリアに語りかけた「言葉」を,次のように伝えている。

「イエスは彼女に言われた,「婦人よ,なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか」。」
-ヨハネ20:15。[新世界訳聖書]


まず最初に,「婦人よ」(英語,“Woman”NWT。「女の人」前田訳,塚本訳)と訳されてる言葉に注目したい。(脚注14

このギリシャ語(の呼格)は,「大人の女性への尊敬の情をこめた自然な呼びかけ」であると言われている。
織田 昭編「新約聖書ギリシア語小辞典」改訂第4版

また,この呼び方は,

ローマ皇帝アウグストがエジプトの女王クレオパトラを呼ぶのに用いた尊称

であると注解されている。
新聖書注解 新約 1」いのちのことば社,1973年。453ページ。 他に,ディオ・カッシウスLⅠ12:5。 「ギリシア語 新約聖書釈義事典〈1〉」教文館,1993年。312ページ。)

だから,イエスは,尊敬の念を込めて,彼女に「女の方」と呼びかけたのだ。(脚注15


それに続いて,イエス・キリストは,「なぜ泣いているのですか」とマリアに訊ねた。

思い出してほしい。
マリアは,「声をあげて」泣いていたのだ。

さらに,この部分のギリシャ語は,現在時制で書いてあるから,その意味は,「ずっと泣いている」「泣き“続けて”いる」という意味である。
イエスが声をかけた時も,恐らく,マリアは,泣き続けたままだったのであろう。(脚注16

「だれを捜しているのですか」(「誰を求めているのか」新約聖書翻訳委員会訳)という部分も,原語では現在時制なので,「誰をずっと求めているのか」「誰を求め“続けて”いるのか」という意味である。

イエスは,彼女が「なぜ」泣いているのかも,また,「誰を」求めているのかも,よく知っていた。
そう。彼女の“すぐ目の前にいる”自分のためである。





「わ・た・し・が・引き取ります」


さて,その質問に対し,マリアはイエス・キリストをそこの園丁と間違え,こう言った。

「だんな様,もしあなたが[主]を運び去ったのでしたら,どこに置いたのかおっしゃってください。わたしが引き取りますから
-ヨハネ20:15。[新世界訳聖書]


マリアは,「園丁」だと思ったその人を,まず疑った。
原語では,「あなたが」という部分が強調されているので,そのことがよく分かる。(脚注17

そして,「わたしが」引き取ります,と言った。
ちなみに,この「わたしが」という部分も,強調されている。(脚注18

この,「わ・た・し・が・引き取ります」(「この私が彼をいただきます新約聖書翻訳委員会訳「新約聖書 福音書」1996年版)というその言い方(複数形の「私たちが」でもない)から,マリア・マグダレネ(マグダラのマリア)の,イエスに対する非常に「強い想い」を私は感じる。





「わ・た・し・の・先生!」


彼女のその「想い」を感じとったイエス・キリストは,今度は,彼女の「名前で」,彼女に呼びかけた。

マリア!(英語,“Mary!”「メアリNWT)」
-ヨハネ20:16。[新世界訳聖書]

この時,マリアは,少し前に同じ人が,「婦人よ,なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか」と言った時には気づかなかった,その「聞き慣れた声の響き」に気がついた。
マリアは,イエスの宣教の二年目からずっとイエスに付き従ってきており,何度も主が「マリア」と優しく呼びかけるその「声」(の響き)をよく覚えていたのだ。(ヨハネ10:3-527

あれ? どこかで聞いたような声・・・
マリアは,泣きながらも,そう思ったに違いない。
もしかして・・・。」


主の声だ!
マリアは,そう確信した。

ほんの一瞬のうちに,彼女の心には「希望」がよみがえってきた。
彼女の「愛する人の声」がするのだ!(ソロモンの歌2:8
絶対に間違うはずがない。

彼女は,すぐに向き直り,喜びにあふれて声を上げた。

ラボニ!
-ヨハネ20:16。[新世界訳聖書]


これは,「ラビ」というヘブライ語(アラム語)の“強調形”で,「師」または,「先生」という意味である。
なお,この言葉には,「わたしの」という意味の“接尾辞”が付いているので,もっと正確には,「わ・た・し・の・先生!」という意味である。
(マリアは,文脈のヨハネ20:13でも,ただの「主」ではなく,「わ・た・し・の・」を取り去ってしまった,という言い方をしている。)

マリアが,目の前にいる人物が「イエスだと分かってから」発した言葉は,基本的に,“これだけ”である。
たった一言,「わ・た・し・の・先生!」。
これだけである。

その言葉の中にはマリアの気持ちどれだけ込められていたことだろう
あとは,マリアは言葉を発しない。
それ以上は「言葉では表現できない」のである。


さて,その時のマリアの「表情」は,いったいどんなだったろうか。
ついさっきまで,彼女は,「声をあげて泣いていた」のである。
しかし,今や,彼女の内面には,喜びの感情がわき上がってきたのである。

泣き顔が微笑みに変わる瞬間の涙を」という感じだったろうか。(松田聖子の「瑠璃色の地球」の歌詞より
目に涙をいっぱいためていたのに,「鳴いたカラスがもう笑った」という感じだったろうか。
それとも,悲しみの涙から,今度は,「うれし涙」でいっぱいだったろうか。





イエスを「抱き締めた」


さて,その後の様子について,聖書は次のように述べている。

「イエスは彼女に言われた,「わたしにさわってはいけない。・・・」」
-ヨハネ20:17。[口語訳聖書

ジェームズ王欽定訳聖書では,この「わたしにさわってはいけない」という部分は,“Touch me not”と訳されている。つまり,「私にタッチするな」ということである。(ラテン語ウルガタ訳聖書では,“noli me tangere”「ノーリ・メ・タンゲレ」)

しかし,他の聖書翻訳では,この聖句は,次のように訳されている。

「イエスは彼女に言われた,「わたしにすがり付くのはやめなさい。(英語,“Stop clinging to me”NWT)・・・」」
-ヨハネ20:17。[新世界訳聖書]


「王国行間逐語訳」のヨハネ20章17節


この聖句に関して,東京大学名誉教授の荒井 献(ささぐ)氏は,次のような興味深い解説をなされている。

「この劇的シーンの中で後世聖画の一様式となったマリアに対するイエスの禁止命令「私にしがみつくのはよしなさい」(ラテン語で Noli me tangere)は,原語のギリシア語me mu haptuでは現在形の命令で表わされているので,これはしがみつくというすでに起こっている動作を前提にしていることが分かる(「さわるな」では原意がよく表出されない)。
これは読者の想像力を刺激するであろう。イエスとマリアの間にはイエスの生前からある種のスキンシップがあったのではないか,。」

マグダラのマリア無限の愛」岩波書店,1996年。294ページにある,荒井 献氏による「マグダラのマリア小論--「遊女」説の起源に寄せて--」より抜粋。


「シナイ写本」のヨハネ20章17節 - 新約聖書ギリシャ語本文 -


私には,このギリシャ語の表現から,復活したイエス・キリストと,まだ頬を濡らしているマリアが,しばらく「抱き合ってる」様子が目に浮かぶのである。(脚注19

その後,イエスが,「わたしにすがり付いたままでいるのは,[そろそろ]やめなさい」と言われた時のイエスの表情は,ものすごく穏やかで,言葉遣いも,「非常に優しい言い方」ではなかっただろうか,と私は想像する。

そして,イエスは,マリアに対して,一つのお願い事をする。

してほしいことがあります。行ってわたしの兄弟たちに,『わたしは,わたしの父,またあなたがたの父である方,わたしの神,またあなたがたの神である方のもとに上って行く』と伝えてほしいのです。」
-ヨハネ20:17。[リビングバイブル]


マリアは,そのイエスの願いに対して,言葉を発することなく,イエスの目を見ながら,「うん」とうなずいた。





秘めた思い


さて,こうした情報をすべて総合する時に,マリア・マグダレネ(マグダラのマリア)は,イエスのことを深く愛していたし,イエス・キリストも,彼女のことを愛していたように,わ・た・し・に・は・思えるのである。

確かに,この地上において,二人が「結婚」して結ばれるということはなかったかもしれない。

「片想い」は,辛いよねかし,極めてプラトニックな関係で,「霊的」また,「精神的」には,この二人の心は,「結婚していた」と言えるくらいのものがあったのではないかと私は思ってる。
少なくとも,マリア・マグダレネ(マグダラのマリア)の側には,イエス・キリストという“理想の男性”に対する「秘めた思い」があったのではないかと私は思うのである。
ちょうど,次の「万葉集」の歌にあるような。

夏の野の 繁みに咲ける 姫百合の
 知らえぬ恋は 苦しきものを

 
 巻八・一五〇〇) 大伴坂上郎女(おほとものさかのうへのいらつめ)

この歌の意味は,こうである。

「一面,夏草におおわれた緑の野原がある。
その丈高い草の茂みの中に,ひっそりと姫百合が一本・・・。
その花に目をとめるものは,おそらくだれもいないだろう。
百合はやがて,人にも知られず,散ってゆくよりほかはない。--
その姫百合のように,
人知れぬ恋に悩むこの苦しさよ・・・。」

永井路子著「万葉恋歌」角川文庫,昭和54年。17ページ。


この歌にあるように,「人知れぬ恋」(片想い)というのは,本当に辛く,苦しいものである。
マリアのイエスに対する想いも,ちょうど,この歌にあるようなものではなかっただろうか。

それに,マリアからすれば,相手は「神の御子」。
マリアがイエス・キリストのことをいくら想っても,所詮,叶えられる恋では到底ない。
叶えられない恋」であるとは十分知りながら,それでも,どうしても彼のことを想ってしまう。

ε-(ーдー)ハァ

そんなマリアの深いため息が聞こえてきそうだ。

「マリア!」 「ラボニ!」
本当の愛(恋)は,「ギブ・アンド・テイク」ではなく,「ギブ・アンド・ギブ」である。

時には,「与える」“だけ”で終わる恋もあるだろう。
“完全に”「一方通行」で終わる恋もあるだろう。
自分がいくら想っても,相手は決して「自分に振り向いてはくれない」ということも,中にはあるだろう。

しかし,人は,そういう,心が締め付けられるような経験を通して,「本当の愛」というものに“気づく”のである。
「愛」とは,“無償の行為”なのである,ということを。

別に愛し返されなくてもいい。自分は,愛し続けないではいられないのだ。
なら,それでいいじゃないか,と。


イエス・キリストには,救い主としての「使命」があった。(ヨハネ6:38
だから,仮に,マリアのその「気持ち」に“気づいて”いたとしても,その気持ちに「応える」ことはできなかったかもしれない。(脚注20

しかし,イエスは,その救い主としての立場から,マリアの気持ちには“最大限”「応えていた」ようにも私には思えるし,極めて純粋な形での「本当の愛」が,そこにはあったのではないか,とさえ私は思うのである。

あなたも,そんな感じがしないだろうか。(脚注21






ここで主に用いられている聖句は,特に注記がない限り,「新世界訳聖書」(ものみの塔聖書冊子協会,1985年)からの引用です。




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脚注1:
ギリシャ語では,“Μαρια”(「マリア」。ストロングナンバーは,「3137」),もしくは,“Μαριαμ”(「マリアム」)と言う。
これは,ヘブライ語「ミルヤーム」(「ミリアム」。旧約聖書に出てくるモーセの姉の名。ストロングナンバー「04813」)のギリシャ語音訳である。
アラム語では,「マルヤーム」と言う。

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脚注2
または,「マグダラの」。ギリシャ語“η Μαγδαληνη”「ヘー・マグダレーネー」。
ストロングナンバーは,「3094

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脚注3
新約聖書注解―新共同訳 (1)」(日本キリスト教団出版局)も,同様に,こう述べる。

「マグダラのマリアが罪深い女と同一人であるという後世の教会伝承は,聖書に根拠がない」。


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脚注4
このギリシャ語のストロングナンバーは,「4183

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脚注5
ギリシャ語「ディアコネオー」の変化形。
ストロングナンバーは,「1247」。
おそらく,「食卓の給仕」など,彼らの身の回りの世話をしていたのであろう。

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脚注6
一般の人たちが「ファクシミリ版」でその文書を自由に調べられるようになったのは,発見されてから“30年以上”も経った,1977年のこと。

ちなみに,これら13冊のコーデックスのうち,最初の「コーデックスⅠ」は,チューリッヒのC・G・ユング協会が買い求め,グノーシス主義に対して深い関心を示した
精神医学者,カール・ユング(1875年~1961年没)への誕生日の贈り物として,1952年に(ファクシミリ版ではなく,「本物」を)贈ったため,「ユング・コーデックス(Codex Jung)」とも呼ばれている。

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脚注7
この「フィリポによる福音書」は,西暦二世紀後半~四世紀前半に,サラミス(キプロス)において,エジプトのある「グノーシス主義」者によって作成(書写)されたものであると言われている。
元々の原本はギリシャ語で書かれ,それがコプト語に翻訳されている。
これは,聖書の66冊の「正典」(カノン)には含まれていない,いわゆる「外典」(アポクリファ)と呼ばれている書物である。

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脚注8
フィリポによる福音書」の同じ記述は,別の本では次のように訳されている。

「三人の(女)がいつも主(イエス)と共に歩いていた。彼の母マリアと彼の姉妹と,人々が彼の伴侶と呼ぶマグダラ(のマリア)である。なぜなら,マリアは彼の姉妹で,彼の母で,彼の伴侶だからである。」

「「不妊と呼ばれるソフィア,彼女は天使たち〔の〕母であり,
救い主の伴侶はマグダラのマリアである〔主は彼女をどの〕弟子たちよりも〔愛した〕。彼は彼女の口にしばしば接吻した。他の〔弟子たちが・・・〕。彼らは彼に言った,「なぜあなたは私たちよりも彼女を愛するのですか」。救い主は答えて彼らに言った,「なぜ私は彼女を愛するようにおまえたちを愛さないのであろう」。」

ジャクリーヌ・クラン著「マグダラのマリア無限の愛」 福井美津子訳。岩波書店発行,1996年。
この本の中の「キリスト教文化史の中のマグダラのマリア」という部分の「マグダラのマリア小論」荒井 献著より。299~301ページ。


また,さらに,別の本では,次のように訳されている。

「つねに主とともに歩いた三人の者がいた。彼の母マリアと妹,そして彼の連れ合いと呼ばれたマグダラの女であった。妹と母と連れ合いは皆マリアであった。」

「そして
救い主の連れ合いはマグダラのマリアであった彼は彼女を弟子の誰よりも愛したし,しばしば彼女の口に接吻したものであった。他の弟子たちは(それをよく思わず)彼に言った。「なぜあなたは彼女をわれわれ皆よりも愛するのですか」と。救い主は答えて,彼らに言った。「なぜわたしがあなた方を彼女のように愛さないのか。・・・」」

バーバラ・スィーリング著「イエスのミステリー―死海文書で謎を解く」 高尾 利数訳。日本放送出版協会(NHK出版)発行,1993年。119ページ。


また,違う人の英訳は,次のとおり。

“36. There were three Mariams who walked with the Lord at all times: his mother and [his] sister and (theMagdalene- this one who is called his Companion. Thus his (true) Mother and Sister and Mate is (also called) ‘Mariam’.”
http://www.metalog.org/files/philip1.html

“59. The wisdom which (humans) call barren is herself the Mother of the Angels. And the Companion of the [Christ] is Mariam the Magdalene. The [Lord loved] Mariam more than [all the (other)] Disciples, [and he] kissed her often on her [mouth]. The other [women] saw his love for Mariam, they say to him: Why do thou love [her] more than all of us? The Savior replied, he says to them: Why do I not love you as (I do) her? ”
http://www.metalog.org/files/philip1.html

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脚注9
ギリシャ語では,夫は単に「男」,妻は「女」という単語で,“文脈”から判断するしかないので,仮に,その種の記述があっても,話がややこしくなるだけである。

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脚注10
ここで,「伴侶」(または,同伴者」「連れ合い」。英語“companion”)と訳されているコプト語の名詞(元々は,ギリシャ語の原本からの翻訳)は,koinonos”「コイノーノスという言葉である。
新約聖書ギリシャ語のストロングナンバーは,「2844」。
この言葉には,「分け合う者」「(共にあずかる者」といった意味(「参照資料付き聖書」(ものみの塔聖書冊子協会,1985年)のコリント第一10:18脚注参照。)の他に,「同志」「仲間」という意味もある。
したがって,その言葉自体は,「妻」という意味での「伴侶」を必ずしも意味するものではない。


また,ここで,「
接吻した」(英語“used to kiss”)と訳されているコプト語は,ギリシャ語動詞の“aspazomai”「アスパゾマイ」という言葉を翻訳したものである。
新約聖書ギリシャ語のストロングナンバーは,「782」。
この言葉には,「
両腕に抱きしめるそれゆえあいさつをする歓迎する」という意味があり,抱擁や口づけ(キス)や会話をさえ伴う,非常に温かいあいさつを指す。
しかし,この言葉自体は,新約聖書に59回も用いられてることから分かるとおり,クリスチャン同士の間で普通に行なわれていたものであり,必ずしも,男女の愛の表現としての「接吻」(口づけ)を意味するものではない。(ソロモンの歌1:28:1

新約聖書のローマ16:16コリント第一16:20コリント第二13:12テサロニケ第一5:26を参照。
これらの聖句には,いずれも,「アスパゾマイ」という動詞が,クリスチャン同士(霊的な兄弟姉妹)の温かい「あいさつ」を意味するもの(「聖なる口づけ(キス)」を伴う)として用いられている。
当然,それらの「口づけ」(キス)を伴う「あいさつ」を交わす人同士が,恋人,あるいは,夫婦であるわけではない。

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脚注11
ここで,「持つ」と訳されているギリシャ語は,「現在分詞」で書かれている。
すなわち,直訳すれば,「持っている」あるいは,「持ち続けている」という意味である。

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脚注12
ここで,「そば」と訳されている言葉は,「パラ」というギリシャ語の前置詞を訳したものである。
ストロングナンバーは,「3844」。

ちなみに,ダナ&マンティ,および,スタンリー・E・ポーターの中級ギリシャ語文法書によれば,この前置詞は,奪格あるいは位格(与格)の,「人を示す名詞だけ用いられる常にを目的語として取る)が,ここ(ヨハネ19:25)では,「人」ではなく,「事物」(「スタウロス」という,非人称の名詞)の位格(与格)を伴い,非常に珍しい「
例外的」な用い方がなされている。
これは,あくまでもギリシャ語に素人である私の「推測」であるが,言葉としては,「スタウロス(杭)のそば」と表現してはいるが,概念としては,「イエスという人のそば」に彼女たちはいた,ということを示すの“かも”しれない。

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脚注13
ここで「泣いていた」と訳されているギリシャ語は,“klaio”「クライオー」という言葉である。
ストロングナンバーは,「2799」。
これは,たとえば,ヨハネ11:35で,イエスが「涙を流された」と訳されてる“dakryo”「ダクリュオー」というギリシャ語(ストロングナンバーは,「1145」)の意味(「声を立てずに泣き悲しむ」「静かに泣く」の意)とは異なる。

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脚注14
ギリシャ語は,“gyne”「ギュネー」という名詞の呼格(「~よ」と呼びかける形)の変化形,“gynai”「ギュナイ」。
ストロングナンバーは,「1135」。

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脚注15
ちなみに,イエス・キリストは,ある女性に対して一度だけ,「娘よ」と呼びかけたこともあった。(マタイ9:22マルコ5:34ルカ8:48
これは,“thygater”「スュガテル」(ストロングナンバーは,「2364」)というギリシャ語を訳したものだが,興味深いことに,このギリシャ語は,日本語では,

お嬢さん

とも訳せるという。
音楽劇「ラマンチャの男」で,彼が,自己嫌悪に満ちている売春婦に対して,「お嬢さん!」と何度も呼びかけて,彼女の最善のものを信じ続けた場面と同じである。
イエスという人は,
いつでも私たちの自尊心を高め決して傷つけない

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脚注16
この質問は,独り息子を亡くしたナインのやもめにかけた言葉を思い出させる。
その時,イエス・キリストは,ただ一言,

泣かないでもよい
(「泣かないで」前田訳; 「そんなに泣くでない」塚本訳

と言われたのである。(ルカ7:13
わずか「ひとこと」,これだけである。他には何も言わなかった。
神にとっては,人が悲しみの涙を流して「泣いている」姿は,かわいそうで,見るに耐えないことなのかもしれないと私は思う。(ヨハネ11:3335啓示7:17

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脚注17
「あなたが」と訳されているギリシャ語は,“sy”「スュ」という人称代名詞。
ストロングナンバーは,「4771」。

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脚注18
「わたしが」と訳されているギリシャ語は,“kago”「カゴー」。
直訳は,「そして,わ・た・し・が」である。
ストロングナンバーは,「2504」。

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脚注19
この部分のギリシャ語は,“Μη μου απτου”「メー・ムー・ハプトゥー」という言葉で,「μηメーによる禁止の現在命令形」(「現在時制の禁止命令」“the present imperative in prohibitions”)で書かれている。
それは,「その時に
進行中の行為の中止」(現在行われている行動を止めるようにと要求する時の,ギリシャ語の言い方なのである。

これは,偉大なギリシャ語学者モールトン博士の友人が,「一人のギリシャ人が犬にμηメーによる現在命令形を使って吠えるのを止めるよう命令しているのを聞いて」発見したと言われている。
(ケネス・S・ウエスト著「ギリシア語新約聖書の実用法」ノア書房,1996年。30,31ページ。H.E.ダナ神学博士,J.R.マンティイ神学博士共著「新約聖書ギリシヤ語文法手引き」津久野キリスト恵み教会出版部,2000年。315,316ページ。“A Manual Grammar of the New Greek Testament” by Dana and Mantey. p,301,302.)


ということは,である。ここでは,「すでに」触れている,さわっている,しがみついているという行為の「中止」(stop)を命令している,という意味である。

「聖書に対する洞察」という聖書辞典も,この「現在時制の禁止命令」(英語,“In the present tense a prohibition ”)に関して,次のように述べている。

「禁止命令の場合も,現在時制とアオリスト時制では意味がはっきり異なります。現在時制の禁止命令には,ある事をすべきではないという以上の意味があります。それをするのをやめることを意味しています。
イエス・キリストはゴルゴタに向かう途中で,ご自分のあとに付いて来た女たちに,単に「泣いてはいけない」と言われたのではなく,彼女たちがすでに泣いていたので,「わたしのために泣くのをやめなさい」とお告げになりました。(ルカ 23:28)
同様に,イエスは神殿ではとを売っていた者たちに,「わたしの父の家を売り買いの家とするのはやめなさい!」と言われました。(ヨハ 2:16)
また,山上の垂訓の中で,食べたり飲んだり,あるいは着たりするものについて「思い煩うのをやめなさい」とも言われました。(マタ 6:25)
一方,アオリストの禁止命令は,どの特定の時,あるいは瞬間にせよ,あることをしないよう禁ずる命令を意味しました。・・・」

「聖書に対する洞察」第一巻。ものみの塔聖書冊子協会,1994年。 760ページ。

そのようなわけで,別の箇所では,はっきりと,こう述べているのである。

「イエスが答えて「マリア!」と言われた時,それがだれであるかすぐに分かったマリアは,思わずイエスを抱き締め(英語,“she impulsively embraced him”),「ラボニ!」と叫びました。」

「聖書に対する洞察」第二巻。ものみの塔聖書冊子協会,1994年。898ページ。


イエス・キリストが「復活」した,と信じる人たちにとっては,これほど確かな証言(証拠)はないであろう。
なぜなら,マリア(マリヤ)は,復活したイエスを「見た」とか,「話をした」という程度ではなく,「
抱き締めた」からである。

あなたが,誰かを「抱き締めた」ことが一度でもあるならば,きっと分かるはずである。その人は,確かに,自分の目の前に実在したのだと。
その人を抱き締めた時の感覚」(感触自分の手や体にいつまでも残っているはずである
では,そのイエス・キリストを「抱き締めた」人が,イエスが復活したと証言しているのを,あなたは,どうとらえるだろうか。(ヨハネ20:18

しかし,そのような「証言」を聞いたとしても,また,実際に「見た」という人の話を聞いたとしても,これは,あくまでも「信仰」の問題である。(マタイ28:17後半; ヨハネ20:29ペテロ第一1:8
結局,「信じない」人は,たとえ,どのような証拠を「見た」としても,「信じない」ものである。(ヨハネ6:36

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脚注20
新約聖書によれば,イエス・キリストには,人が「心の中で」何を考えているのかを“読みとる”力があったようである。(マルコ2:8) 
もし,そうなら,誰かがイエスのことを「好き」だという気持ちにも“気づく”はずである。
もし,その気持ちを「無視」するなら,相手の気持ち(感情)に配慮することもできない,ただの「鈍感な」男であったと言わざるを得ない。
女性にとって,「鈍感な男」は,きっと,いやだろう。
そのような男の姿は,「理想の男性像」(または,理想の夫像)としては,むしろ,ふさわしくない。

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脚注21

その後のマリア・マグダレネ(マグダラのマリア)について,新約聖書は何も語っていない。したがって,彼女がその後どうなったのかは誰も知らない。後代の怪しい「伝承」以外には。
他の誰かを好きになって「結婚」したのか,あるいは,愛する人(イエス)のことをずっと想い続け,一生「独身」のままで過ごしたのであろうか。

いずれにしても,次の聖句が書かれた当時(西暦96年頃),もし,マリアがまだ生きていたとしたら,きっと喜んだに違いないと私は思う。

「歓び,そして喜びにあふれよう。また,[神]に栄光をささげよう。子羊の結婚が到来し,その妻は支度を整えたからである。」
-啓示19:7。[新世界訳聖書])



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