「疲れた心に強い翼を! -You are loved- あなたは愛されている」のサイトマップ


神は,ご自分を愛するようにと「命令」している?

- 人は愛せよと命令されて愛せるのか -
神は強制してない






「シナイ写本」のマタイ22章37,38節 (新約聖書ギリシャ語本文)






前書き


今からもうずいぶん前のこと,ほとんど10年近く前の1998年のことであるが,私,possibleが,まだ現役の「エホバの証人」だった頃,Never Exitという,当時現役大学生(私は,「匿名兄弟」と呼んでいた)がウェブマスターの「エホバの証人擁護サイト」があった。

当時はまだ,インターネットが流行りだしたばかりの頃で,私も当然,自分のサイトなんて持ってなかったし,現役のエホバの証人で,自分のサイトを持ってる人も,その他には,ほとんどいなかった。
私は,その
『Never Exit』の掲示板を通して,いろんな場所の兄弟たち(実生活では,「絶対に会う機会がない」と思われる人たち)と交われるので,インターネットって,すごいなあと思っていた。

また,同時に,インターネットで「エホバの証人」と検索すると(当時は,検索サイトは「Yahoo(ヤフー)」が主流。「グーグル」なんて存在しない。),そのほとんどが,いわゆる「反対者」のサイトばっかりで,それも,実に驚いたものである。(当時は,もちろん,ものみの塔協会も,サイトを立ち上げてはいなかった。)
そうした中で,匿名氏の「エホバの証人擁護サイト」は,たいへん貴重な存在だったのである。

しかも,匿名氏は,「英語が堪能」のようで,また,聖書の原語(ギリシャ語)にも,ある程度,精通しているように見えた。
また,原語の辞典(ストロングの辞書)だとか,キリスト教会の文献などからも引用していて,その「学識の広さ」に,私は尊敬の念を持ったものである。
当時は,もちろん,「ものみの塔ライブラリー」などという便利なものは存在しないし,今ほど,インターネットも普及していないので,もし,文献から「引用」できるとすれば,自分で実際にその文献を持っているか,あるいは,図書館等で調べなければできないような状況だったろうと思う。

しかし,今は,非常に便利になった。
インターネットで調べられる情報量も,今では,当時とは比べものにならない。




さて,その『Never Exit』の掲示板に,私が,ある時,投稿したコメントをキッカケとして,そのサイトの掲示板で交わっていた「ほとんどの」兄弟たちから,「寄ってたかって攻撃を受けることとなった。

私は,「同じ信仰の仲間」(と思っていた人たち)から,しかも,「寄ってたかって」そのような「攻撃」を受けたことに,たいへんなショックを受けたものである。「そんなことが許されるんだ」と,はじめて知ったからである。(それに,「寄ってたかって」というやり方が「卑怯」だと思った。)

私は,どんな時にも何があろうとも,「兄弟たち(仲間)の悪口は“絶対に言ってはいけない」と思っていたからである。しかも,あのような,誰もが見れる「公の」掲示板では,なおさら・・・。そう思っていたのである。
こう思うと,私も当時は,相当まじめで,ウブな人間だったのかもしれない。(笑)

結果として,私は事実上,その掲示板からは「追い出され」た。(「自ら行かなくなった」と言えば,聞こえはいいが,自分自身の感覚としては,そうではない。)

そして,私は,その後,マイクロソフトの
「FrontPage」というソフトで,簡単な「自分のサイト」を作って立ち上げた。1999年2月26日のことである。それが,「疲れた心に強い翼を! -You are loved- あなたは愛されている」という,非常に,くさい タイトルのサイトの始まりである。(笑)
「疲れた心に強い翼を!」というサイトが存在するのは,匿名氏のサイト
『Never Exit』があったおかげであると言っても過言ではない。私は,そのサイトを見て,わ・た・し・も,「自分のサイトを作りたい」と,本気で思ったからである。



さて,私が,当時,「同じ信仰の仲間」(と思っていた人たち,すなわち,エホバの証人)から,「寄ってたかって」“総”攻撃を受けるキッカケとなったのは,マタイ22章37節に関する,私の「独特の解釈であった。

そのマタイ22章37節とは,こんな聖句である。

「 [イエス]は彼に言われた,
「『あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめてあなたの神エホバを
愛さねばならない』。」
-マタイ22:37。[新世界訳聖書]


この聖句に関する私の「独特の」解釈とは,いったいどんなものであったのだろうか。


ここに,1998年の4月から6月にかけて,私が
『Never Exit』の掲示板に投稿したものと,そこから撤退した後に,その管理者に宛てて,私が個人的に送ったメールの一部をアップする。

これがキッカケとなり,あ・な・た・も・この問題について,ご一緒に考えてくれるようになっていただければ,幸いである。
(私が,Never Exitを去った後に作った,「「王国行間逐語訳」を活用する」の「直説法」という記事(その特に,「未来形」の部分)も参照していただきたい。)

なお,ここにアップされているものは,私のカキコのみ(私が「著作権」を持っているものだけ)となっている。ほかの人がカキコしたものは,一切含まれていない。
それゆえ,多少「話の流れ」がつかみにくいとは思うが,その点はどうぞお許しいただきたい。 <(_ _)>


なお,ここに示した「リンク」や「画像」は,現在の私が,読者の理解をさらに助けるために挿入したものであり,当時の投稿には一切含まれていない。

また,当時の投稿内容は,「ものみの塔ライブラリーなどない時代のものだと認識して,どうか見て欲しい。
つまり,「参照資料付き聖書」なり,他の文献から引用したりするものは,すべて,個人研究の賜物であり,「ものみの塔ライブラリー」を単に“検索”して引用してるものではない。
なお,私が何度も言及している「王国行間逐語訳」と呼ばれるインターリニアの聖書(ものみの塔聖書冊子協会発行,1985年)は,現在のものみの塔ライブラリーの中にも入っておらず,検索して調べることはできない。






その1
「Never Exit」の掲示板に投稿したものより。(1998年4月18日
主題: 「強制的か?」


聖書のマタイ22章36~40節には,次のように書かれています。


「「師よ,律法の中で最大のおきてはどれですか」。
 イエスは彼に言われた,

「『あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめてあなたの神エホバ
  (
ヘブライ語“Yehowah”「エホーワー」聖書協会世界連盟発行の「ヘブライ語版新約聖書」
  を愛さ
ねばならない』。

これが最大で第一のおきてです。
第二もそれと同様であって,こうです。

 『あなたは隣人を自分自身のように愛さ
ねばならない』。

律法全体はこの二つのおきてにかかっており,
預言者たちもまたそうです」。



ここで2回「愛さねばならない」と訳されているギリシャ語は,アガペー(愛)の動詞アガパオー(愛する)の

二人称単数「未来形

の変化形で,「アガペーセイス」という言葉です。

「王国行間逐語訳」のその字義的な意味は,“You shall love”「あなたは愛することになる」です。

興味深いことに,このギリシャ語は「命令形」ではなく

未来形

なので,ガラテア5章14節ではその同じギリシャ語が

“You will love”(「行間」)

と訳されています。

つまり,文字通りには「あなたは愛するでしょうだろう)」という意味であり,エホバは決してご自分に対する愛それを実際の行動で表す伝道強制したり,「義務として要求したりしてもおりません
(「新世界訳聖書」のイザヤ43:23の後半を参照) 


エホバの証人の親が自分の子供を伝道に連れていくのは,申命記6章の5節7節にあるとおり,子供たちの内になんとかこの愛を「培わせ」,やがて彼らが成長して

自分の意志」で自らの信仰を「選択

できるようになった時,エホバのその「あなたは愛するでしょう」という

信頼

に応えられる人間になってほしいと願っているからなのです。
(「参照資料付き聖書」のフィレモン14節脚注および,21節参照) 

詩編110編3節は彼ら(「若者」)について,「あなたの民は進んで自らをささげます」と述べています。

「参照資料付き聖書」の脚注によれば,字義的には「「自発的な捧げ物[となるであろう]」,すなわち,すぐに応じる志願者となる」という意味であることが説明されており,民数記15章3節の脚注では,その同じヘブライ語(“nedhavah”ネダーヴァー」)が

自由意志
“free will”

と訳されています。 


ところで,「休日に家に来る子供を見ると不憫に思います」という点に関しては,興味深い事実があります。
英語では「休日」という言葉は“Holiday”といいます。

いしぐろ・マリーローズという方は,

Holiday という言葉は知っていても,これが holy と結びついていることを知る人は少ないでしょう」

と,その本の中で述べておられます。

英和辞典によれば,このHolidayという英語は,holy”神聖なday”が結びついてできた語です。

ですから,「休日」とは「神に仕える日」のことであり,よって,休日に家族と共に伝道に出かけることは良いことなのです。





その2
「Never Exit」の掲示板に投稿したものより。(1998年5月16日
主題: 「翻訳に関して」


原語(ヘブライ語,アラム語,ギリシャ語)から「直接」日本語に訳された聖書としては,次のものがあります。
以下,現在私が持っているものを示します。

文語訳(日本聖書協会
口語訳(日本聖書協会
新改訳(日本聖書刊行会
新共同訳(日本聖書協会
バルバロ訳(講談社
現代訳(現代訳聖書刊行会
中沢訳(中央公論社の「世界の名著」12より

などです。

他に,クリスチャン・ギリシャ語聖書(新約聖書)だけの翻訳としては,

フランシスコ会訳(フランシスコ会聖書研究所。現在,旧約聖書も翻訳中
前田護郎訳(中央公論社
永井直冶訳「新契約聖書」(基督教文書伝道会
塚本虎二訳「福音書」(岩波文庫
新約聖書翻訳委員会訳(岩波書店

などです。

この中の「新約聖書翻訳委員会訳」は,1996年に発行されたばかりの新しい翻訳です。
私が見る限りでは,この翻訳は原語(ギリシャ語)の意味を非常に正確にとらえており,とても「信頼できる」翻訳です。


一例をあげますと,以前私がマタイ22章37~39節を引用して,ここで2回

「愛さねばならない
英文“You must love”

と訳されているギリシャ語「アガペーセイス」は,命令形ではなく未来形」なので,神はご自分への愛(それを実際の行動で表す伝道)を決して「強制」したり,「義務」として要求してもおられないというような趣旨のことを書いたことがありましたよね。

しかし,残念ながら多くの翻訳がこの部分を,まるで「命令や義務のように聞こえる感じ」に訳しています。

愛せよ」口語訳
愛せよ」新改訳
愛しなさい」新共同訳

その他同様。 

それに対し,この翻訳では原語のそのままの意味

愛するであろう

と訳しています。興味深いですね。

それで,この翻訳の場合,たろーさんの「翻訳者の主観が入っている」という言葉は当てはまらないような気がいたします。


また,私の持っていないものとしては他に,

関根正雄訳「新訳 旧約聖書」(教文館
柳生直行訳「新約聖書」(新教出版社

などがあります。
また,英語からの翻訳(重訳)でも,ギリシャ語の様々な意味を教えてくれて,非常に役立つ翻訳もあります。

例えば,“THE AMPLIFIED NEW TESTAMENT”(ロックマン財団発行)の日本語版

「詳訳聖書・新約」(いのちのことば社

などです。





その3
「Never Exit」の掲示板に投稿したものより。(1998年5月17日
主題: 「感謝さんの質問に答える」


ところで,感謝さんは

新世界訳の英語版自体もYou must loveとなっており他の翻訳は,非難できないと思います」

と述べておられますが,私自身は他の翻訳を「非難するためとか,新世界訳聖書の翻訳はどうの,とか言うためにギリシャ語「アガペーセイス」の意味を述べているわけでは決してありません

そうではなく,この「愛さねばならない」と訳されているギリシャ語には,字義的には

あなたは愛することになる
(英文“You shall love”; 感謝さんの参照したNASV,NKJVの他に,Int「王国行間逐語訳」,RSV,NRSV,ABも同様)

または,

「王国行間逐語訳聖書」のガラテア5章14節 (新約聖書ギリシャ語本文)

あなたは愛するでしょうであろう)」
(英文“You will love”「王国行間逐語訳」のガラテア5章14節の翻訳。
この「王国行間逐語訳」は,英文新世界訳聖書を翻訳したのと同じ人たち,すなわち「新世界訳聖書翻訳委員会」の油注がれた兄弟たちによる翻訳

という意味があって,それは「命令」というよりも,むしろ

エホバの私たちに対する信頼を教えている

ということを知って欲しかったからなのです。

エホバは事実上,ここでこう言っておられるのです。

「あなたは私の選んだ愛する民。
 私はあなたを信頼している
 だから,あなたは私のことを「愛するでしょう」。
 いやきっと愛してくれるに違いない!

と。


この言葉は

未来形」で書かれている

ので,もし私たちがこの言葉を無視するならば,その時,神は「ウソつき」となってしまうのです。

なぜなら,神は「あなたは(必ず)愛することになる」(“You shall love”)とおっしゃっているのに,「そうならなかった」ということになるからです。(イザヤ55章11節) 

私たちは,悪魔サタンがエホバ神のことを「ウソつき」呼ばわりするための根拠を与えたいとは思いません。
私たちは,むしろ,

エホバのその信頼に応えたい

と思うのです。(箴言27章11節





その4
「Never Exit」の掲示板に投稿したものより。(1998年6月11日
主題: 「皆さん。お世話になりました」


最後に,感謝さんのマタイ22章37節に関する私の見解に対するご批判にお答えしておきたいと思います。

何度も言ったように,ここで「あなたは…愛さねばならない」と訳されているギリシャ語「アガペーセイス」は,明らかに「命令法」(もし神が愛することを命令したかったなら当時のギリシャ語にはちゃんと現在命令不定過去命令があるではなく

未来形

であります。

ですから,感謝さんの言われるように「愛せよ」とは,どうしても訳し得ないのです。


感謝さんは,申命記6章5節セプトゥアギンタ訳の翻訳を取り上げ,この「あなたは…愛さねばならない」という言葉が「未来形で訳されているのはその翻訳の誤りであり,ゆえに,マタイ22章37節の「アガペーセイス」をそのまま未来形にとるのは間違っているかのような印象を人に与えようとしています。

しかし,私の今までのコメントの中では,「セプトゥアギンタ訳の」ギリシャ語に関しては,一切言及してはおりません。

私が言及したのは,それら誤りを犯しやすい人間が翻訳したもの(すなわち,「霊感を受けていない」もの)ではなく,誤りなく「霊感を受けて」書かれた,「クリスチャン・ギリシャ語聖書の中の」ギリシャ語です。

しかし,もし,マタイが最初にヘブライ語で書いたという点で,このギリシャ語に疑問を投げかける人がいるならば,最初からギリシャ語で書かれているマルコ12章30,31節ルカ10章27節ローマ13章9節ガラテア5章14節ヤコブ2章8節の「アガペーセイス」をご覧ください。


この「アガペーセイス」という言葉は,アガペーの動詞,アガパオーの,細かく言うと「二人称・単数・能動態・未来形・直説法」の変化形です。

これは,「二人称」のギリシャ語ですが,聖書の中では,他に「一人称」単数と「三人称」単数の未来形も用いられています。


一人称」単数の未来形は「アガペーソー」といい,それはヨハネ14章21節に一回だけ出てきます。
その部分を日本語版の新世界訳聖書では,「愛して」と訳されています。
「王国行間逐語訳」では,“shall love”と訳されています。
そして,この「未来形」の言葉を,英文新世界訳は,“ I will love”と訳しています。


そして,「三人称」単数の未来形は,「アガペーセイ」といい,それは,マタイ6章24節ルカ7章42節ルカ16章13節ヨハネ14章23節に,四回出てきます。
日本語版の新世界訳聖書では「愛する」,ヨハネ14章23節では「愛し」と訳されています。
「王国行間逐語訳」では,“he will love”とか,will love”などと訳されています。
英文新世界訳では,“(he will)… love” “will love”などと訳されています。


このように,「一人称三人称も共に原語の未来形のそのままの形に訳されいます

このようなわけで,「王国行間逐語訳」では,同じように「二人称の」未来形である「アガペーセイス」を“You shall love”と訳すだけでなく,ローマ13章9節ガラテア5章14節では,

“You will love”

と訳しているわけです。


それで,原語のギリシャ語をよく調べれば,この「アガペーセイス」は明らかに「命令法」ではなく,「未来形」の形で書かれており,それゆえ,その意味をそのまま受け取って,

“You will love”
おまえは・・・愛するであろう
(「新約聖書翻訳委員会訳」の翻訳)

と訳しても,決して間違いではないはずです。
むしろ,そのほうが「字義訳」というものでしょう。

それで,私個人は,新世界訳聖書翻訳委員会による「王国行間逐語訳」(ものみの塔協会発行)というこの「きわめて字義的な」翻訳を,非常に信頼しているわけです。

「参照資料付き聖書」においても,ガラテア5章14節の脚注では,「または,「愛することになる」」と書かれています。
ここで「愛することになる」と訳されている,英文「参照資料付き聖書」の英語は,Or,“shall.”です。
その脚注の米印は,英語“must”という言葉の上に付いています。
ですから,仮に「新世界訳聖書」が“You shall love”「愛することになる」と訳していたとしても,べつによかったわけです。


また,ヘブライ語に関しては,簡単にふれておきたいと思います。

感謝さんは,「申命記6章5節ヘブライ語では命令形になっています」とおっしゃっておられますが,これは,明らかに「間違い」です。
ここで「あなたは…愛さねばならない」と訳されているヘブライ語は,「愛する」という意味の動詞,「アーハヴ」の「カル形・二人称・単数・男性形・完了態」の変化形です。

そうです。「完了態」です。

ですから,明らかに「命令法」(もし神が愛することを命令したかったのであればヘブライ語には,「命令法がちゃんとあるホセア3章1節では,その「命令法」が用いられており,新世界訳聖書では「愛せよ」と訳されています。ではありません
ですから,「愛せよ」とは,どうやっても訳し得ないのです。

なお,この「完了態」は,「動作が確実に遂行されることを示す」ものであり,よって,新世界訳聖書では,「愛さねばならない」と訳されています。
しかし,感謝さんの言うように,「愛せよ」と「命令形」の形には,どうやっても訳し得ないのです。


では,最後に,感謝さんにお尋ねいたしますが,神はその文脈(申命記6:1,26)で明らかに「命じている」とおっしゃっておられるのに,どうしてここで命令法愛せよとは命令されなかったのでしょうか。
霊感を受けて記したモーセが,ここで「命令法」ではなく,「完了態」を用いた理由は何なのでしょうか?





その5
「Never Exit」のウェブマスターに送ったメールより。(1998年6月20日
主題: 「愛する匿名兄弟へ」


匿名兄弟だったら,きっと分かってくださると思うのですが,私が最初に,ギリシャ語のアガペーセイスが「未来形」であると言及したのは,それがエホバからの「命令」(または,「おきて」)であるということを否定しようとしたのではありませんでした。

そうではなく,その言葉の中に,エホバの私たちへの信頼含まれている』ということを強調したかったからでした。
しかし,残念ながら,彼らは私のその意図をまったく汲み取ってはくれませんでした

それどころか,

それは間違っているとか,
ヘブライ語ではどうのとか,
セプトゥアギンタ訳ではどうのとか,
shallがどうのとか,
発音がどうのとか,

文法的なことに変にこだわってきて,私の強調したかったこととは,だいぶ「ずれて」きました。
それで,もうこれ以上,彼らに話をする気を無くしてしまったのです。


私にとっては,そのような文法的なことなどは「どうでもよいこと」でした。

私としては,ただ,その「アガペーセイス」という言葉の中に,エホバの私たちへの信頼含まれている』ということを知って欲しかっただけなのです。


聖書には,

「あれをしてはいけない
「これをしてはいけない
「あれをしなければならない
「これをしなければならない

と書いてあると言われて,聖書とは,また,エホバとはそういう神だ,と教わってきた人たちに,それらの言葉の背後には

エホバのがある

ということを,ぜひとも知って欲しかったのです。

でも,彼らはそのことを理解してはくれませんでした。


この貴重な真理を,私は誰からも教わったことはなく,また,誰もそんなことは「教えてはくれない」でしょう。
これらの真理は,私が発見した真理の中でも,「とりわけ貴重なもの」でした。

私個人は,誰も自分の周りのエホバの証人の中にギリシャ語に関心のある人も教えてくれる人もなく,ただ独り孤独に勉強をする中で,この真理をある日突然発見しました。

そのとき,私は,この「~ねばならない」(義務)という,一見「強制的」とも思える言葉の中に,

エホバの愛を感じ取った

のです。

それは,確かにエホバの「命令」であるとしても,エホバは,あくまでも,私たちが「自分から」エホバを

愛するようになる

ことを“信じている”のだと・・・。

匿名兄弟だったら,これが私の言わんとしていたこと」であることを,ご理解してくださるものと信じております。










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