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私たちが学校で教わる「社会」の教科書によれば,「キリスト教」は一般に,フランシスコ・ザビエルという名のカトリック(イエズス会)の宣教師が,1549年に日本に初めて伝えた,と教えている。従って,学校の先生方は当然,生徒たちには,そのように教える。
さらに,学校の先生方だけでなく,日本の「キリスト教会」でも,一般に同様に考えている。
たとえば,日本の「福音派」の教職者らによって書かれた『新キリスト教辞典』の,「日本の宣教史」という項目の一番“最初の出だし”には,次のように書かれている。
「1.ローマ・カトリックによる宣教。
(1) ハビエル来日から秀吉による禁令まで(1549―87年)。
日本に初めてキリスト教を伝えたのは,ローマ・カトリック教会のイエズス会士,フランシスコ・ハビエル(ザビエル)であった。彼は1549年,マラッカで出会った日本人ヤジロウを伴い,日本宣教の大きな幻を抱いて鹿児島に上陸した。当時の日本は戦国時代の末期に当り,・・・」
(「新キリスト教辞典」 いのちのことば社,1991年。982ページ。)
「日本の宣教史」に関する記述が,1の(1)で,上記のように始まっているのである。
つまり,“それ以前の”日本には,キリスト教の歴史は存在しなかったわけだ。
1549年という年なので,「いごよく(1549)広まるキリスト教」というに,“語呂合わせ”でこの年を覚えることができる。
学校の教科書も,先生方も,そして,キリスト教会の教職者や牧師たちも皆,そのように教えるのだから,もし,学校の試験や受験等で,それ以外の年を書けば,おそらく,×(バツ)になってしまうだろう。
しかし,この「1549年に初めて」という答えには,多少,「疑問」に思うこともある。
それは,西暦一世紀に, イスラエルという中東の国(中東は,実は,西洋ではなく「東洋」)でキリスト教という宗教が誕生してから,“同じ”「東洋」である日本にその宗教が伝わるまで,およそ1500年 も かかっている,ということにである。
もちろん,昔は,車も電車も飛行機もなかった。
だが,こうした乗り物がない時代とはいえ,これではちょっと,伝わるのに「あまりにも時間がかかりすぎている」のではないだろうか。(脚注1へ)
というのは,キリスト教が成立したのとほぼ時を同じくして,インドでは,仏教の新しい教え(「大乗仏教」)が興りはじめたが,その仏教は,西暦六世紀(538年)には,もうすでにこの日本に伝わって来ているからである。
キリスト教の創始者であられるイエス・キリスト(彼はユダヤ人,つまり,「東洋人」であった)は,西暦一世紀の初期クリスチャンたちに,次のように述べたと聖書は伝えている。
『それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。』
-マタイ28:19,20。[新世界訳聖書]
また,古代のある写本(アレクサンドリア写本(五世紀),エフラエム写本(五世紀),ベザ写本(五,六世紀)等)によれば,イエスは一部,こうも言われたと伝えられている。
「世界じゅう(「全世界」口語訳,新改訳,新共同訳)に行って,良いたよりを全創造物に宣べ伝えなさい。」
-マルコ16:15。 [新世界訳聖書]
また,イエスは,ご自分の弟子たちへの最後の言葉として,次のようにも言われた。
「しかし,聖霊があなた方の上に到来するときにあなた方は力を受け,エルサレムでも,ユダヤとサマリアの全土でも,また地の最も遠い所にまで,わたしの証人となるでしょう」。」
-使徒1:8。[新世界訳聖書]
上記の言葉はすべて,西暦一世紀に,イエス・キリストが当時の弟子たちに語られた言葉である。
イエスがマタイ28章19節(新世界訳聖書)で言われた,
「すべての国の人々」
(「すべての国民」口語訳聖書)
という言葉の中には,当時“弥生時代”であった「
(脚注2へ)
また,使徒1章8節(新世界訳聖書)でイエスの言われた,
「地の最も遠い所にまで」
(「地の果てに至るまで」新共同訳聖書)
という言葉の中には,当時(弥生時代)の「
イエスの弟子たちは,主が与えたこの「大宣教命令」を真剣に受け止め,当時知られていた「世界の隅々」まで旅をし,イエスの教え(キリスト教)を広めていった。
(ケン・ジョセフ Sr.&Jr.著「隠された十字架の国・日本―逆説の古代史」徳間書店,2000年。149ページ。)
実際,使徒パウロは,西暦60年~61年ごろ,イタリアのローマで書いたと思われる,コロサイ人への手紙1章23節(新世界訳聖書)で,良いたより(福音)は,
「天下の全創造物」
(「世界中至るところの人々」新共同訳聖書)
の中で「宣べ伝えられた」(新改訳聖書の表現によれば,「宣べ伝えられている」)と述べた。 (脚注3へ)
この使徒パウロの言葉は,当時,ローマ帝国が支配していたヨーロッパ中の人々に,イエスに関する良いたより(福音)を伝えたということだ,と一般には理解されている。
しかし,ここでも少し疑問が残る。
使徒パウロの言う,この「天下の全創造物」(「世界中至るところの人々」新共同訳聖書)の中に,当時(弥生時代),「
もし,「含まれてはいない」のだとすれば,この表現は少し 変 だと思わないだろうか。
だって,
「天下の全創造物」
(“to every creature under heaven”新欽定訳聖書)
と書いてあるのである。
それとも,弥生時代の日本人は,「天下の全創造物」の中には入っていないとでもいうのか。 (;`O´)o
歴史を調べてみると,イエスの弟子たちは,ただ「西の方角」(西洋)へ伝道に行っただけではなかったことが分かる。
実は,彼らは,
「東の方面」(東洋)
にも向かったのである。
学者たちによれば,インドには西暦52年に,キリスト教の宣教師が存在したという証拠があるそうである。
(久保有政+ケン・ジョセフ著「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史〈2〉―仏教・景教篇」徳間書店,2000年。28ページ。 ケン・ジョセフ Sr.&Jr.著「隠された十字架の国・日本―逆説の古代史」徳間書店,2000年。30ページ。)
たとえば,『アジア伝道史』という本には,
「インド西岸に分布するマラバル教会は使徒トマスによって開かれたという伝承があり,現地ではそう信じられている。トマスの到着は五二年と伝えられる。」
(渡辺信夫著「アジア伝道史」 いのちのことば社,1996年。59ページ。)
と書かれている。
インドは,あの「西遊記」という物語で,「
(ゴダイゴの「ガンダーラ」という歌では,「そこに行けば どんな夢も叶うと言うよ 誰も皆 行きたがるが はるかな世界♪」と歌われている。)
「伝承」によれば,使徒トマス(別名「デドモ」,“双子”の意)は東に向かった。
研究家,バル・オーライの記すところによれば,トマスは,イエスが昇天されてからわずか2年後(つまり,西暦35年頃)には,すでに「アッシリア地域」(現在のイラクやイランがある地域)で伝道していたという。
アッシリア東方キリスト教会では,伝統的に,トマスは「初代の大主教」と呼ばれている。
彼らにとっては,使徒トマスこそ,自分たちに最初にキリスト教をもたらしてくれた人物なのであり,それゆえに,今でも,トマスは彼らから深く尊敬されている。
また,トマスはその後,インド南西部のケララ州(ケララのマラバル海岸。インド半島南西部のアラビア海に面する海岸)に伝道に行ったと伝えられる。
『日本仏教の歴史的描写』の著者である,アーサー・ロイド博士は,その点を詳しく調べ,
「トマスのインド伝道は疑う余地なし」
との結論を出している。
(森山 諭著「神道と仏教をただす(上巻)」 荻窪栄光教会出版部,昭和56年。70,71ページ。)
ロイド博士の研究によると,トマスは,インドのクランガモールのマーランカラに上陸し、その地で多くの人々に洗礼を施し,7つの教会(会衆)を建て,2人の司祭(長老)を任命した。
四世紀の宗教史家エウセビオス(260年頃~340年頃の教父)は,クリスチャンの使徒トマスが,一世紀にキリスト教をインドに伝えた,と述べている。
「広辞苑」は,「トマス」の項目で,次のように説明している。
「トマス【Thomas】
キリスト教の聖者。イエス十二使徒の一人。伝説に,インドに渡ったといわれ,その言行は「トマス行伝」に描かれる。トーマ。」(脚注4へ)
(「広辞苑」第五版。岩波書店,1998年。)
さらに,伝承によれば,トマスはまたその後,中国にも伝道に行った,とのことである。
だいたい今の
しかし,再び,トマスはインドに戻って伝道し,西暦68年から75年ごろ(ある人によれば,「西暦72年」),バラモン教徒の手にかかって殉教したと言われている。(脚注5へ)
彼の遺体は,南インドのメリアポール(または,ミラポール。今のマドラス。1996年には,「チェンナイ」に改名)に葬られたらしく,西暦五世紀のテオドラという人物は,フランスのクールの監督グレゴリーに対して,
「南インドのメリアポールにトマスの墓があった」
と伝えている。
(森山 諭著「神道と仏教をただす(上巻)」 荻窪栄光教会出版部,昭和56年。72ページ。)
また,一三世紀のマルコ・ポーロの日記には,
「トマスの墓を,預言者の墓,またはアベリア(「聖人」の意)の墓と呼んでいる」
と記されているそうである。
(森山 諭著「神道と仏教をただす(上巻)」 荻窪栄光教会出版部,昭和56年。72ページ。)
マルコ・ポーロが,西洋の人に初めて「日本」という国を,黄金の国「ジパング」(チパング島)として紹介した有名な『東方見聞録』(1298年成立。当時の「ジパング」は,鎌倉時代)にも,インドのマラバル海岸(マアバル地方)に関する説明の部分で,トマスの伝道や殉教のいきさつ,トマスの墓がそこにあることなどについて言及されている。
こう記されている。
「聖トーマスの墓はマアバル地方の一都市にある・・・」
「使徒聖トーマスの遺骸は,マアバル地方の人の少ない小さな町におかれている。そこは産物もゆたかでなく,不便なところなので,商人もあまり行かない。しかしキリスト教徒もイスラム教徒も大分参詣にゆく。イスラム教徒が行くのは,彼をイスラム教の大予言者と考えているからで,彼をアヴァリアンすなわち聖者とよんでいる。・・・(中略)
聖トーマス教会の管理者はたくさんのインド胡桃〔やし〕を栽培し,これで生活して・・・いる。彼の話によると,この聖者の死んだときの有様はつぎのようである。ある日聖トーマスは隠遁所をでて,森の中で祈祷をしていた。・・・ゴヴィ族の偶像崇拝教徒が弓をもって通りかかり,聖者の姿が見えないのを幸いに,矢を孔雀にはなったが,それは聖者の右脇腹にあたり,傷のため,彼は霊魂を神に託したのであった。彼はここにくる前,ヌビアにすみ,多くの人をキリストの信仰に改宗させた。」
(マルコ・ポーロ述/ルスティケロ著。青木富太郎訳「東方見聞録」 現代教養文庫,1969年。184,188,189ページ。)
このトマスの伝道の結果,インドではクリスチャン人口は増えつづけ,少数派ではあったが,それでも「1000人のうち10人」の割合を,クリスチャンが占めていたという。
そして,トマスがインドに良いたよりを伝えてから,およそ1400年余りたってから,ローマ・カトリック教徒であるポルトガルの植民地開拓者たちが,バスコ・ダ・ガマに率いられてケララ州に着いた時,彼らは,すでにキリストを信じている人がそこに大勢いるのを知って驚いたといわれている。(脚注6へ)
この,トマスがインドに伝道に行ったということは、その昔,NHKの番組「シルクロード」の中でも取り上げられた。
その番組によれば、インドのケララ州においては,人口のいまだ「5分の1」がキリスト教徒であり、彼らは自分たちのことを「トマ(トマス)の子」と名乗っているそうである。(脚注7へ)
そして,今でも,そこには,トマスが建てたと言われる(または,使徒トマスを記念して建てた)教会堂も現存しているそうである。
現地の人はそれを,アラム語で「マル・トマ」教会と呼んでいる。
「マル」とは,「聖」(または,「先生」)という意味で,「トマ」とは,もちろん,「トマス」という意味である。つまり,その教会の名は,「聖トマス教会」という名前なのである。
(久保有政+ケン・ジョセフ著「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史〈2〉―仏教・景教篇」徳間書店,2000年。29,63ページ。 ケン・ジョセフ Sr.&Jr.著「隠された十字架の国・日本―逆説の古代史」徳間書店,2000年。31,47ページ。)
『新聖書辞典』は,「トマス」という項目で,その「聖トマス教会」に言及し,次のように述べている。
「シリヤ語を話す教会の間では,トマスは主イエスのふたごの兄弟の一人であり,ユダ(マコ6:3)と同一視する説があった。その後のトマスについては,ペルシヤに宣教したとか,インドで宣教し,そこで殉教したとかの伝承が伝えられている。現在も,インドの聖トマス教会は,トマスの宣教によって設立された教会の継承と主張している。」
(「新聖書辞典」いのちのことば社,1985年。893ページ。)
『新キリスト教辞典』も,「世界と教会と神学」という項目の中で,「インドの教会」について説明し,次のように述べている。
「(7) インドの教会。
インドのキリスト教の起源は,3世紀にさかのぼる。使徒トマスがインドに来たという伝説はインドの教会で決して弱くならない。インドの西南マラバールにはトマス・キリスト教として知られるマール・トマ・シリア・マラバール教会がある。」
(「新キリスト教辞典」いのちのことば社,1991年。805ページ。)
この点に関しては,有名な
「世界のキリスト教は二つに分派を持ち,東と西に伝播した。一つは弟子トマスが印度 に持つて行つた。紀元一世紀に,キリスト教が印度 に這入 つたと云 へば,嘘だと云 ふ人があるかも知れないが,印度 にはスリヤ 教会がある。この教会は確かに,イエスキリストの弟子トマスが伝道した教会で,千九百年の間眠つてゐたのであるが,最近五十万人位の勢力を持ち復活して来た。」
(賀川豊彦著『神に就ての瞑想』 教文館出版部,昭和5年。179,180ページ。)
また,ヒエロニムス(当時一流の聖書学者,教父。ラテン語ウルガタ訳の翻訳者。西暦347~420年頃)の記すところによると,キリストの十二弟子の一人,バルトロマイ(別名「ナタナエル」)も,インドに伝道に行き,最後はアルメニアのアルバノポリスで死んだとしている。
バルトロマイは,アッシリア方面に伝道に行ったのである。
(久保有政+ケン・ジョセフ著「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史〈2〉―仏教・景教篇」徳間書店,2000年。30ページ。 ケン・ジョセフ Sr.&Jr.著「隠された十字架の国・日本―逆説の古代史」徳間書店,2000年。31,151ページ。)
インドには,「ビリヨンの書簡」として,次のような記録が残っている。
「バルトロマイと呼ばれたナタナエルが,天竺 に渡り,多くの患難の後に大アルメニヤ領へ行く。これはインドス河の東なり」
また,「エロニム聖人の書」と呼ばれるものには,こう書いてある。
「天竺 に令名を轟かしたパンテニュース 聖人が,バルトロマイの遺物であるヘブル語で書いたマタイ伝福音書を,天竺 からエジプトに持ち帰った」(脚注9へ)
(森山 諭著「神道と仏教をただす(上巻)」 荻窪栄光教会出版部,昭和56年。69ページ。)
また,同じく,イエスの十二弟子の一人,使徒タダイ(聖書の別の箇所では,「ヤコブの子ユダ」または,「イスカリオテでないユダ」と呼ばれている。アラム語では,「アダイ」)は,アッシリア地方の古都エデッサ(現ウルファ,トルコ南東部)や,パルテヤ地域(カスピ海南東)に行って,良いたより(福音)を伝えたようである。
四世紀の歴史家が,過去の文献を引用して,そう記した文章が残っているそうである。
(ケン・ジョセフ Sr.&Jr.著「隠された十字架の国・日本―逆説の古代史」徳間書店,2000年。32,151,160ページ。)
その後,エデッサは東方キリスト教の中心地として栄えた。
西暦95年には,その地域には19の都市に,キリスト教の主教がいたようである。
また,西暦161年には,メディヤ,ペルシャ,バクトリヤなどのアッシリア地方には,広くキリスト教が伝わっていたことが知られている。
そののち,西暦五世紀になると,「
彼らは中国に達し,「唐」の時代(618年~907年),巨大な景教の寺(教会)がどの省にも建てられたようである。
(久保有政+ケン・ジョセフ著「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史〈2〉―仏教・景教篇」徳間書店,2000年。40,43~46ページ。 ケン・ジョセフ Sr.&Jr.著「隠された十字架の国・日本―逆説の古代史」徳間書店,2000年。37,156ページ。)
そして,彼らはそののち,この日本にもやって来た!
しかし,初期のクリスチャンたちについて詳しく研究した学者たちによれば,それ以前にも,すでに,
中国には,西暦61年頃
日本には,西暦198年か199年
に,キリスト教の宣教師が存在したという証拠があるそうである。(脚注11へ)
ここで興味深いのは,中国に宣教師がもうすでに存在したと報告されているこの西暦61年という年は,使徒パウロが,「コロサイ人への手紙」1章23節において,良いたよりは,
「天下の全創造物」新世界訳聖書
(「世界中至るところの人々」新共同訳聖書)
の中で宣べ伝えられた(「宣べ伝えられている」新改訳聖書)と書いたのとほぼ同じ年であることである。(脚注12へ)
さて,西暦198年か199年ごろ(西暦二世紀)の「
ザビエルが1549年に,ローマ・カトリックの教え(キリシタン)を伝えるよりもおよそ1300年以上も前に,日本人はすでにキリスト教に接していた
ということになる。
そして,今や,21世紀に入った現在の時点からは,およそ,
1800年も前に,「キリスト教」は,この日本に伝わっていた
ということになるのである。
そう。現代(主に,明治以降と戦後)になって,「アメリカ」を主とする“西洋まわり”のキリスト教が伝えられるよりもずっと前に,
“東洋まわり”のキリスト教
が,それも
西暦二世紀
という非常に早い段階で,もうすでに,この日本には伝えられていた可能性があるのである!
それは,西暦六世紀(538年)に,仏教がこの日本に伝来するよりも,はるか以前の話なのである。
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脚注1:
今のような交通手段のなかった昔の人にとって,地球は確かに広かったかもしれない。
だが,理論的には,毎日時速4キロで8時間歩き続けたら,およそ,3年と6ヶ月で地球を一周(約4万キロ)することができるのである。
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脚注2:
(やよいじだい(やよひ‥)【弥生時代】とは,
「日本歴史上の時代区分の一つ。弥生式土器が使用された時代をいい,紀元前三世紀末年から紀元後三世紀にわたる時期。」
(Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) (c) Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)(c)小学館 1988)
「日本」と書いて「ヤマト」と読むようになったのは,「大化の改新」(7世紀)ごろから。
「ニホン」「ニッポン」と音読するようになったのは,「奈良時代」(8世紀)以降のことである。
それ以前(7世紀以前)は,「倭」(わ)と呼ばれていた。
なお,倭の女王卑弥呼による「邪馬台国」が登場するのは,西暦2世紀後半(弥生時代後期)になってからのことである。
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脚注3:
この使徒パウロの言葉は,イエス・キリストが,マタイ28:19,20の「大宣教命令」を弟子たちに語られてから,およそ四半世紀後のことであった。
それ以前にも,使徒パウロは,新約聖書のローマ人への手紙10章18節で,旧約聖書の詩編19編4節の言葉を引用し,その言葉は「世界のはてにまで及んだ」(口語訳聖書)と述べていた。
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脚注4:
ここで言う「トマス行伝」とは,いわゆる「新約聖書外典」の一つで,西暦三世紀前半に,エデッサ(現ウルファ,トルコ南東部)で,グノーシス派に属する人物によって書かれたと思われる書物である。
この「トマス行伝」を,じかに読んでみたいと思われる方は,荒井 献偏「新約聖書外典」講談社文芸文庫,1997年。275~408ページ。「使徒ユダ・トマスの行伝」をご覧いただきたい。
その「使徒ユダ・トマスの行伝」は,トマスの十三の行録と一つの殉教物語から成っている。
その第一行伝は,
「彼(主)が彼を商人ハバンに売り,彼が下って,インドを悔改めさせたときのこと」
という言葉で始まり,
第二行伝は,
「使徒トマスがインドに入り,王のために天上に宮殿を建てたこと」
という言葉で始まっている。
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脚注5:
トマスが中国にも伝道に行ったのが,もし本当だとすれば,当然,中国には,彼が殉教するよりも前に(遅くとも,西暦75年以前に)キリスト教が伝わっていたことになる。
久保有政+ケン・ジョセフ著「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史〈2〉―仏教・景教篇」徳間書店,2000年。29ページ。
および,ケン・ジョセフ Sr.&Jr.著「隠された十字架の国・日本―逆説の古代史」徳間書店,2000年。30ページ参照。
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脚注6:
「宗教百科事典」には,その時,
「クリスチャンがインド社会の一員として受け入れられ,敬われている」
ことに気づいた,と書かれている。
(「目ざめよ!」誌1994年1月22日号21,22ページ。「目ざめよ!」誌1994年11月8日号21ページ。「目ざめよ!」誌1987年9月22日号13ページ。ものみの塔聖書冊子協会発行。)
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脚注7:
久保有政+ケン・ジョセフ著「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史〈2〉―仏教・景教篇」徳間書店,2000年。106ページ。
また,その同じ本の80ページによれば,「住民の約二五パーセント」がキリスト教徒だと言われている。その場合,人口の4分の1。
一方,インド全体では,約0.3パーセント。
全人口の9億8,923万人(1999年現在)のうち,キリスト教徒はわずか300万人だけ。
他は,ヒンズー教徒,イスラム教徒,シーク教徒などが占める。
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脚注8:
「かがわ‐とよひこ【賀川豊彦】とは,
「キリスト教社会運動家。神戸の人。神戸貧民街の伝道をはじめ,関西の友愛会の指導者となり,農民組合・消費組合運動にも関係。第二次大戦後は伝道・生活協同組合運動・世界連邦運動に尽力。小説「死線を越えて」。(1888~1960)」
(「広辞苑」第五版。岩波書店,1998年。)
脚注9:
この「エロニム聖人の書」では,バルトロマイ(ナタナエル)が生前,天竺(インド)にいた可能性を示唆しているが,興味深いのは,バルトロマイの持っていた西暦一世紀のマタイの福音書は,「ヘブル語」(ヘブライ語)で書かれていた,と述べている点である。(つまり,今日,知られているような「ギリシャ語本文」ではない。)
この点で,この情報は,ある程度,信頼できるように思える。
カイザリアのエウセビオス(260年頃~340年頃の教父)は,ヒエラポリスの監督パピアス(西暦130年頃)の言葉を引用し,こう述べている。
「マタイによる福音書については,「そこでマタイはヘブル語で記録を書いた。・・・」と述べている。」
(エウセビオス「教会史」第三巻39章16。 H・ベッテンソン著「キリスト教文書資料集」聖書図書刊行会,1962年,57ページ。 「新聖書辞典」いのちのことば社,1985年,1180ページ。 「聖書に対する洞察」第二巻,ものみの塔聖書冊子協会,1994年,876ページ。)
また,リヨンの監督アイレナイオス(イレナエウス。西暦二世紀末)も,こう述べている。
「マタイはヘブル人のなかで,ヘブル人の言語で福音書を著した。」
(「異端論駁」第三巻1章1節。エウセビオス「教会史」第五巻8章2。 H・ベッテンソン著「キリスト教文書資料集」聖書図書刊行会,1962年,58ページ。 「新聖書辞典」いのちのことば社,1985年,1181ページ。)
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脚注10:
けい‐きょう【景教】とは,
「(「光り輝く教え」の意) ネストリウス派キリスト教の中国での呼称。唐代に中国に伝わり,唐朝が保護したために隆盛,唐末に至ってほとんど滅亡。後また,モンゴル民族の興隆と共に興ったが,元ゲンと共に衰滅。」
(「広辞苑」第五版。岩波書店,1998年。)
脚注11:
トマスに限らず,キリスト教の宣教師によって,西暦一世紀中に,中国やチベットにキリスト教が伝えられていたことを示すさらに詳しい証拠に関しては,
久保有政+ケン・ジョセフ著「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史〈2〉―仏教・景教篇」徳間書店,2000年。36~38ページ。
および,ケン・ジョセフ Sr.&Jr.著「隠された十字架の国・日本―逆説の古代史」徳間書店,2000年。36,61ページをご覧いただきたい。
次の「景教」に関するサイトや,「東洋の十字架展」の情報も参照。↓
http://www.keikyo.com/keikyo/keikyo-j.html
http://www.keikyo.com/ec/index-j.html
戻る
脚注12:
この,「コロサイ人への手紙」の執筆の場所と年代に関して,「新聖書辞典」は,こう注解している。
「コロサイじんへのてがみ ~人への手紙・・・(中略)
(2)執筆の場所と年代。
使徒の働きによると,パウロが投獄されたのはカイザリヤとローマにおいてであり(23:1以下,28:17‐30),この手紙はローマで書かれたと一般に考えられている。それに対し,カイザリヤまたはエペソで書かれたという説もある。その理由の一つとして,エパフラスやオネシモがわざわざ遠くローマにまで行ったとは考えられないというのである(参照コロ4:9,12)。しかし,ローマへの交通機関は当時としてもかなり発達していたことや,奴隷オネシモのように逃亡を企てるのであれば世界中から人々が集まっているローマの方が隠れやすいと考える方が自然である。したがって,ローマにおいて,紀元61年頃書かれたものと思われる。」
「新聖書辞典」いのちのことば社,1985年。483ページ。)
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