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「
これは,日本の伝統ある「
「二人の人が組み合って,相手を土俵 の外に出すか,倒すかして勝敗を争う」
というこの競技の歴史は非常に古く,すでに,
この相撲の歴史を振り返ってみると,鎌倉幕府の事跡を記した史書「
そして,戦国時代には,あの有名な武将
そして,江戸時代には,数多くの人気力士が登場し,空前の相撲「黄金時代」が訪れることになる。(脚注4へ)
そして,明治時代になると,明治5年には早くも,それまで男性“しか”見ることのできなかった大相撲を,女性も見ることができるようにされ,相撲の人気はますます上がっていった。
また,明治40年には,大相撲は海外にも披露され,「東京
今日,“
昭和に入ると,まず,昭和3年には,大相撲はラジオで実況放送が開始されるようになった。
そして,昭和28年からは,テレビでも放映されるようになり,多くの人が自宅にいながら,大相撲を見られるようになった。(脚注5へ)
こうして,今日,平成の時代になっても,大相撲は子供から大人まで幅広い層の人気がある。
さて,大相撲の競技者は,「
「
この「
「
この「
番付 (ランキング) |
格差 | ||
(42人以内) |
「 と呼ばれる |
||
幕内と幕下の中間 | |||
力士養成員 (付け人) |
|||
( |
(番付外) | - |
番付の一番下の地位「
さて,その「番付」は,毎年行われる「
(これは,「巡業」とは異なる。朝青龍が「ズル休み」をしたのは,この巡業のほう。)
その「
「初場所」(1月‐東京「両国国技館」)
「春場所」(3月‐大阪「大阪府立体育会館」)
「夏場所」(5月‐東京「両国国技館」)
「名古屋場所」(7月‐名古屋「愛知県体育館」)
「秋場所」(9月‐東京「両国国技館」)
「九州場所」(11月‐福岡「福岡国際センター」)
の,計6回である。(脚注7へ)
さて,この日本の伝統ある「国技」は,いつ頃始まったのであろうか。
「広辞苑」第五版(岩波書店,1998年)によれば,「相撲」は,
「古代から宮廷で,相撲 の節 として秋に行われた。現在は国技と称される。」
と説明している。
(すまいのせち【相撲の節】とは,
「奈良・平安時代,毎年7月,天皇が宮中で相撲を観覧する行事。2~3月頃,左右近衛府から部領使コトリヅカイを諸国に遣わして相撲人を召し出し,7月26日に仁寿殿ジジユウデンの庭で予行の内取ウチドリがあり,相撲人は犢鼻褌タフサギの上に狩衣・袴を着けて取る。28日(小の月は27日)に本番の召合メシアワセがあって20番(後には17番)を取り,天皇が紫宸殿などでこれを観覧する。翌29日に抜出ヌキデという前日の相撲人の優秀者の取組と追相撲オイズマイとがある。」
「広辞苑」第五版。岩波書店,1998年。)
この「
天平6年(734年)7月
に,相撲を
しかし,
日本最初の
「百済 の使者,大佐平智積 らに朝廷で饗応 された。そこで力の強い者に命じて,翹岐 の前で相撲 をとらせた。」
(宇治谷 孟「日本書紀〈下〉 全現代語訳(講談社学術文庫)」講談社,1988年。137ページ。)
と記されている。(脚注9へ)
これが,歴史上の事実として,「史実」に残る相撲の最古の記録であると言われる。
しかし,「相撲」という言葉は,実は,それよりはるか以前に現れることが分かる。
同じく「日本書紀」の記すところによれば,第21代「
「天皇は采女 を召し集めて,着物を脱いで,ふんどしをつけさせ,皆の前で相撲をとらせた。」
(宇治谷 孟「日本書紀〈上〉 全現代語訳 (講談社学術文庫)」講談社,1988年。305ページ。)
という記述が見られる。
(その部分の原文は,以下の通り。
「乃喚集采女,使脫衣裙而著犢鼻,露所相撲」
この時の彼女たち(采女)の姿は,着物を脱がせて(つまり,裸にして)「ふんどし」という格好であり,非常に「うらやましい」というか,
「エロチック」 (/ω゜\)チラッ♪
である。
これは,要するに,「男性の相撲取りと同じ姿」であるわけだが,女性が男性の相撲取りと同じような格好をすれば,「エロい」わけである。(* ̄ー ̄*)
日本の歴史上,最初に「相撲」の二文字が現れる記録が,この「女相撲」であったというのは,たいへん興味深いことだと思う。
さて,「伝説」によれば,相撲の“起原”は,さらに遡る。
同じく「日本書紀」には,第11代「
「当麻蹶速 と野見宿祢 に角力をさせた。」
(宇治谷 孟「日本書紀〈上〉 全現代語訳(講談社学術文庫)」講談社,1988年。141ページ。)
と記されている。(脚注10へ)
この「伝説」から,勝者の
しかし,相撲の“起源”は,さらに「神話」の時代にまで遡る。
現存する日本最古の歴史書「古書記」によると,
そのことに対し,
「だれだ,わたしの国に来て,そのようにひそひそ話をするのは。それでは力競べをしてみよう。では,私がまずあなたのお手をつかんでみよう」
(次田真幸「古事記 (上) 全訳注 講談社学術文庫 207」講談社,1977年。164ページ。)
と挑戦したのである。
そこで二人の神は,「力くらべ」(原文は,「
この物語の中で言及されている二人の神の「
「諏訪大社に伝えられた神事 相撲(豊作を予祝 し,または占うための神事 儀礼)が母胎となっているのであろう」
(次田真幸「古事記 (上) 全訳注 講談社学術文庫 207」講談社,1977年。165ページ。)
と述べている。
それで,この話は,相撲の“起こり”は,「
現在でも,相撲は,「
たとえば,現在,大相撲で力士たちが取り組みをする,あの土俵上の「吊り屋根」であるが,それは,どんな形をしているだろうか。
その屋根の形は,「
「伊勢神宮」正殿の屋根の形
と同じなのである。
(参考: 日本相撲協会のサイト
http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_joho_kyoku/shiru/kiso_chishiki/mame/mawari.html#turi )
しかも,ご丁寧にも,その屋根は伊勢神宮の「
だから,あのテレビに映る大相撲の力士たちは,「神社の屋根」の下で,つまり,いわば「神社の
(いせ‐じんぐう【伊勢神宮】とは,
「三重県伊勢市にある皇室の宗廟。正称,神宮。皇大神宮(内宮ナイクウ)と豊受トヨウケ大神宮(外宮ゲクウ)との総称。皇大神宮の祭神は天照大神,御霊代ミタマシロは八咫鏡ヤタノカガミ。豊受大神宮の祭神は豊受大神。20年ごとに社殿を造りかえる式年遷宮の制を遺し,正殿の様式は唯一神明造ユイツシンメイヅクリと称。三社の一。二十二社の一。伊勢大廟。大神宮。」
「広辞苑」第五版。岩波書店,1998年。)
さらに,昭和27年には,観客に見やすいようにと,「
その四隅を飾る4色の房は,それぞれの色が天の四神,または,
すなわち,東の青房は「
南の赤房は「
西の白房は「
北の黒房は「
それぞれ表している。(脚注13へ)
(参考: 日本相撲協会のサイト
http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_joho_kyoku/shiru/kiso_chishiki/kiso_yougo.html#fusa )
また,力士たち(お相撲さん)の土俵上での動作も,「
例えば,力士は,土俵上で
「四股 を踏」む
が,それは,相撲の基本である。
つまり,力士が土俵で
(参考: 日本相撲協会のサイト
http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_joho_kyoku/shiru/kiso_chishiki/kiso_yougo.html#shiko )
また,力士が,前の取組で勝った力士から,
だから,その「
(参考: 日本相撲協会のサイト
http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_joho_kyoku/shiru/kiso_chishiki/kiso_yougo.html#chikara )
また,力士が取り組みの前に「塩をまく」のも,土俵の
だから,この塩は「清めの塩」とも言われている。
(参考: 日本相撲協会のサイト
http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_joho_kyoku/shiru/kiso_chishiki/kiso_yougo.html#kiyome
http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_joho_kyoku/shiru/kiso_chishiki/mame/mawari.html#shio )
また,さらには,「
このように,日本の国技である相撲は,単なるスポーツ競技でも格闘技でもなく,
「神道 の儀式」
なのである。
この点で,相撲は,その他の「スポーツ」とは明らかに異なる。
さて,このように,日本の歴史のごく初期のころからすでにあり,古くから「神事」と深い関係のある,日本の「国技」相撲(角力)が,「もしかしたら,聖書とも関係があるのかもしれない」と聞けば驚かれるかもしれない。
多くの人は知らないかと思うが,実は,聖書の中に
「角力」
という言葉が出てくるのである!
聖書の1番目の書,「
「而 して ヤコブ一人遺 りしが 人ありて夜 の明 くるまで之 と角力 す
其 人己 のヤコブに勝たざるを見て ヤコブの髀 の樞骨 に觸 れしかば ヤコブの髀 の樞骨 其 人と角力 する時挫離 たり」
-創世記32:24,25。[文語訳聖書]
と書いてある。
(画: ギュスターヴ・ドレ(1832年-1883年)
Courtesy of: www.creationism.org )
実は,このことを,今から80年も前に指摘していた人がいた。
小谷部 全一郎
(おやべ ぜんいちろう。哲学博士。キリスト教宣教師(牧師)。北海道虻田土人尋常小学校,土人乙程実業学校設立者。東京皇典講究所,國學院大学,神道本局神宮奉賛会講師。陸軍通訳官。1867年(慶応3年)12月23日~1941年(昭和16年)3月12日没。)
である。
彼は,その著書の中で,こう述べていた。
「上古 ユダヤにおいても相撲が行われ,族祖ヤコブが終夜相撲をとったことが創世記三十二章に見られる。
「ヤコブ一人残りしが,人ありて夜 の明 くるまでこれと角力 せり。其 の人己 のヤコブに勝たざるを見て,ヤコブの髀 の枢骨 に触れしかば,ヤコブの髀 の枢骨 其 の人と角力 するとき挫離 たり」。」
(小谷部全一郎著「日本人のルーツはユダヤ人だ―古代日本建国の真相」たま出版,1991年。59ページ。
原著は,「日本及日本國民之起原」厚生閣,昭和4年(1929年)(平成11年6月,八幡書店より復刻)。315ページ。)
さらに,小谷部氏は,続けてこんな興味深いことも述べている。
「当時婦女同士も相撲をとったと見え,創世記三十章に「ラケル(ヤコブの妻)我 姉と相撲して勝ちぬといいてその名をナフタリ,即 ち相撲 と名づけたり」とある。
原書にレスリングとあるのに,日本訳の聖書には原文を没却 し,これを神の争 いと訳したのは誤りである。女相撲は近代まで日本でも行われていた。」
(小谷部全一郎著「日本人のルーツはユダヤ人だ―古代日本建国の真相」たま出版,1991年。59ページ。
上記の「レスリング」という部分は,原著では,「角力」と書いて「レスリング」というフリガナがふってある。)
このように,聖書の「創世記」の記述には,ヤコブが「
それだけでなく,女同士(ラケルとレア)の闘い(女相撲)についても,暗に(象徴的に)言及されている。
これは,現存する日本最古の歴史書である「古事記」(712年)や,日本最古の史書である「日本書紀」(720年)が,「
しかも,聖書も,日本の史書に記されている「相撲」の記録も,共に,男よりも「女相撲」のほうが先である。
さて,ヤコブがその時「
聖書には,次のように記されている。
「あなたの名はもはやヤコブではなく,イスラエルと呼ばれる。あなたは神また人と闘って,ついに優勢になったからだ」
-創世記32:28。[新世界訳聖書]
このように,聖書によれば,ヤコブが「
実際,その時,ヤコブに付けられた
「イスラエル」
という名前自体,「神と闘う者」という意味なのである。(脚注16へ)
興味深いことに,相撲の稽古の一つに,
「鉄砲 」
と呼ばれるものがある。
「
バキューン ( ・・)σ ‥…---------- ・
と撃つ
これは,力士が,腕力などを鍛えるための最も重要な基本のひとつで,力士同士が互いに向き合って行う「突っ張り」(両腕,または,左右の腕を交互に伸ばして,相手の胸を突く技)の稽古のことである。
(参考: 日本相撲協会のサイト
http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_joho_kyoku/shiru/kiso_chishiki/kiso_yougo.html#teppou )
稽古場には,「鉄砲柱」と呼ばれる柱があり,力士は,一人でその柱に向かって突きを繰り返す練習もする。
興味深いことに,「
だから,
「神と」相撲を取っている
ことになるのである。(脚注18へ)
その際,その「柱」(神)のほうが力士よりも強いことは,言うまでもない。
力士がどんなに「突き」を繰り返しても,その柱のほうが“動く”ということはない。
また,力士が,取り組みの前に,「塩をまく」ことも,もしかしたら,聖書と関係があるのかもしれない。
たとえば,聖書には,こんなふうに書いてある。
「そしてアビメレクはその日一日その都市に対して戦って,ついにその都市を攻略した。その中にいた民を殺し,その後その都市を打ち崩して,そこに塩をまいた。」
-裁き人9:45。[新世界訳聖書]
(また,レビ記2:13; エゼキエル16:4の記述も参照。)
この「塩をまく」点に関して,「日本ユダヤ教団」のラビ(教師)であった,マーヴィン・トケイヤー氏は,その著書の中で,こんな興味深いことを述べている。
「多くの外国人たちが日本へ旅行にやってきて,羽田空港に降り立つ。そして,日本の国技である相撲を見に行ったとしよう。その時,キリスト教徒たちは羽田に着いた時から全く混乱した異和感を抱いているだろうが,ユダヤ人の旅行者に限っては,何か家に戻ってきたような親近感があり,国技館で見る相撲の力士が行なう塩を土俵にまく動作にも奇妙さを感じないのである。ユダヤ人であれば,その意味は即座に理解できるからである。ユダヤ人の家庭では,母親が同じようなことをして家の中を清めていたからである。
ユダヤ人の家庭ではコーシャと呼ばれる清浄を保った食事が行なわれるので,常に大量の塩が保存されている。だから,何か汚れたものがあれば,ユダヤの婦人は必ず塩を用いてそれを清める習慣がある。
ユダヤ人は相撲の力士たちを見たことはないが,取り組みの前に塩をまいて土俵を清めるという考え方そのものは,ユダヤ人にとっては決して異質なものではないのである。」
(M・トケイヤー著「ユダヤと日本謎の古代史」産能大学出版部,昭和50年(1975年)。31,32ページ。)
さらに,相撲の「
「立合い」の時,行司は,土俵上で力士が見合っている時に,「かまえて」「見合わせて」「油断なく見合って」「まだまだ!」などと声をかける。
そして,制限時間がくると,「時間です。手をついて」「待ったなし」などと言い,両力士が立ち上がると同時に行司が軍配を引く。
この「立合い」は,実は,「
「
(参考: 日本相撲協会のサイト
http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_joho_kyoku/shiru/kiso_chishiki/kiso_yougo.html#tachiai )
(あうん‐の‐こきゅう【阿吽の呼吸】とは,
「1・・・(略) 2 相撲の仕切りなど,二人以上がいっしょにある物事をするときの,相互の微妙な調子,気持。また,それがぴったり一致すること。」
Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) © Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)©小学館 1988)
「広辞苑」第五版(岩波書店,1998年)によれば,「阿吽(あうん)」の「
また,この「
「
さて,「広辞苑」の言うように,この「
というのは,聖書の最後に記されている「啓示」(黙示録)には,こう書いてあるからである。
「エホバ神はこう言われる。「わたしはアルファであり,オメガである。
(ギリシャ語,)
今おり,かつており,これから来る者,全能者である」。」
-啓示1:8。[新世界訳聖書](脚注20へ)
この聖句の「アルファであり,オメガである」という部分は,ギリシャ語の文字をそのまま「
(「新世界訳聖書-参照資料付き」(ものみの塔聖書冊子協会,1985年)の啓示1章8節の脚注参照。)
したがって,この部分を,もっと“日本語的”に訳すならば,
「わたしは“ あ ”であり,“ ん ”である。」
(“I AM あ and ん.”)
となる。
(「I AM」(ギリシャ語「エゴー・エイミ」)の意味するところについては,「八咫鏡と神の御名」という記事も参照。)
興味深いことに,私たち日本人が普段話している日本語の五十音(「あいうえお・・・ん」)は,「あ」で始まり,「ん」で終わる。
(「日本語の「仮名」と「ヘブライ文字」の不思議な関係」という記事にある,「日本語-ヘブライ語 対比表」の「ア(あ)」と「ん」の部分も参照。)
さらに,相撲と聖書が関係があるかもしれないと考えられるものに,土俵以外では「祭主」として神社の「宮司」と同じ役割を果たす行司が述べる言葉で,
「ハッキヨイ・ノコッタ」
というのがある。
行司は,力士が,がっぷり組んで動かない時は,「ハッキヨイ!」(ハッケ・ヨイ)と気合いを入れ,技をかけている時は,「ノコッタ」と,声をかける。
さて,これらの言葉には,いったいどんな意味があるのだろうか。
「広辞苑」第五版(岩波書店,1998年)は,「はっけ‐よい」を「八卦良い」の意か,と述べている。(脚注21へ)
しかし,「日本相撲協会」の説明によれば,「ハッキヨイ」という言葉は,
「発気揚揚」がつまったもので,気分を高めて全力で勝負しよう
という意味だそうである。
(参考: 日本相撲協会のサイト
http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_joho_kyoku/shiru/kiso_chishiki/mame/gyo.html#wha )
では,「ノコッタ」とは,どういう意味だろうか。
それは,その言葉のとおり,「残った」という意味で,「広辞苑」によれば,「土俵に余地があって,まだ勝負がついていない」。
「日本相撲協会」の説明によれば,両力士とも
「土俵に残っている」
「勝負はまだついていない」
と知らせているのだそうである。(脚注22へ)
しかし,「日本に来た最初のキリスト教徒」の記事でも紹介した,
川守田 英二博士
(かわもりた えいじ。神学博士。ヘブライ語学者。サンフランシスコ長老派教会牧師。1891年(明治24年)~1961年(昭和36年)没。)
は,興味深いことに,この言葉は「ヘブライ語」であると述べている。
その意味は,
「汝撃つべし,
やっ付けろ,
汝撃破りぬ,相手を」
または,「(あなたは)撃て,やっつけろ,打ち破れ(相手を)」
という意味になるそうである。
(久保有政+ケン・ジョセフ著「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史〈2〉―仏教・景教篇」徳間書店,2000年。292ページ。)
その点を,川守田英二博士は,その著書の中でこう説明している。
「「ハッケー」(HKH Impv from NKH, Smite then)は「汝撃つべし」,
「ヨイ\/」「は(IHI・IHI Let there be, let here be)「やっ付けろ\/」
「ノコッタ」(NKIT)「汝撃ち破りぬ,相手を」
ここに注意すべきことは,「ノコッタ」も「ハッケー」も同じ語根の「ノケ」又は「ノケー」(NKA・NKH)から出ている。
「ヨイ ヨイ」を現行マソレテ発音法では「イェヒイ\/」といわせている。
「相撲」「そうぼく」という中国語から,「スマフ」という語が出たであろうが,「角力」則ち力比べは,ヤコブが四〇〇〇年も昔,ペニエルで神の使とスモウをとったと記されている程古い。野見ノ宿祢と当麻ノ蹴速との渡合いを思う。」
(川守田英二著「日本ヘブル詩歌の研究(上巻)」八幡書店,昭和62年。218ページ。)
さらに,川守田博士は,こう説明している。
「相撲の時の「ノコッタ」は「勝負がついた」ことであるが,後代その真義を忘れている。
これは「ノコノコサイサイ」の「ノコ」にタがついたもので,NKAT・NKHT“thou hast smitten”「汝なげつけたぞよ」である。
「ハッケ」は「ノコ」の起因態命令法HKH,
「ヨイ」はYHY“()let there be”「よろしく投げうて」の義である。」
(川守田英二著「日本ヘブル詩歌の研究(下巻)」八幡書店,昭和62年。152,153ページ。)
また,他にも,その土俵上の屋根の形は,「伊勢神宮」正殿の屋根の形とまったく同じ形なので,大相撲の力士たちは,いわば,「神社」の境内で相撲を取っていることや,その元々の神社の構造(本殿,拝殿,境内,境内の外)。
さらに,彼らの階級が大きく
「幕内」と「幕下」
とに別れ,幕内力士に昇進することを「入幕」と言い,力士社会では,「幕内」は他の相撲取りたちとは“別格扱い”(そこを境にして,「給料」も「待遇」も全く異なる)であることなどが,聖書の「幕屋」(後に「神殿」)の構造や,そこにおける奉仕の特権の違いなどと似ていることも挙げられるかもしれない。(脚注23へ)
番付 (ランキング) |
格差 |
(42人以内) |
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幕内と幕下の中間 | |
( |
(番付外) |
以上,日本の国技「相撲」と「聖書」(キリスト教とユダヤ教)の意外な関係について,ほんの少しだけ考慮してみた。
もちろん,これらすべてが「聖書と関係がある」と,はっきり言えるわけではない。
もしかしたら,「たまたま」似ているだけなのかもしれない。
しかし,日本に昔からあり,今でも日本人の間で親しまれているこの伝統ある国技が,もしかしたら ,「聖書と関係のある部分もあるのかも しれない」と考えるのは楽しいことではないだろうか。
(相撲に関する素材は,一部,「スポーツ素材屋 - スポーツHP作成支援」様より,いただいてきたものである。)
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脚注1:
日本相撲協会が設立・経営する常設の屋内相撲興行場は,「国技館」と呼ばれている。
これは,日本相撲協会が,明治時代に“勝手に”付けた名前であり,本当は,相撲は「国技」ではない,とも言われている。
しかし,今では,「相撲は日本の国技である」という通念が日本人の間では定着している。
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脚注2:
昔は,「打つ」とか「蹴る」などの技もあり,心身の鍛練や戦闘に役立つとして,武士の間でも盛んに行われるようになっていたようである。
(すもう(すまふ)【相撲・角力】
「1 二人の力士が土俵の中で素手で相手を土俵の外に出すか,倒すかして勝敗を争う競技。古くは,打つ蹴るなどの技もあり,武術として発達。また,宮中行事や農耕儀礼の神事としても行われた。室町時代に,興行化,あるいは遊戯化され,職業力士集団も生まれた。すまい。《季・秋》」
Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) © Shogakukan
1988/国語大辞典(新装版)©小学館 1988)
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脚注3:
信長の一代記(いちだいき)「信長公記(しんちょうこうき)」には,彼がしばしば相撲を上覧(じょうらん)したことが記されている。
信長は,元亀(げんき)元年(1570年)の3月に,近江(おうみ)国(現・滋賀県)の常楽寺で上覧相撲(じょうらんずもう)を催し,その時の勝者,宮居眼右衛門に与えた弓が「弓取り」の儀式の始まりと伝えられている。
天正(てんしょう)6年(1578年)の2月には,相撲取りを300人,8月には相撲取りを1500人も集めて,安土城(あづちじょう)で「相撲大会」を催している。
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脚注4:
寛政(かんせい)3年(1791年)の6月には,第11代将軍,徳川家斉(いえなり)(在職1787年~1837年)が江戸城内吹上御苑(ふきあげぎょえん)で上覧相撲(じょうらんずもう)を催したのをきっかけに,その後も将軍臨席のもとに相撲がたびたび行なわれ,「幕府推奨の娯楽」として,相撲の人気がますます上がったという。
そして,相撲は,「錦絵(にしきえ)」と呼ばれる浮世絵版画,「歌舞伎」「小説」「川柳(せんりゅう)」など,当時の文化に多大な影響を及ぼした。
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脚注5:
この時,テレビの放送時間には限りがあるとの理由から,仕切り時間が制限されるようになり,最初は幕内10分,十両7分,幕下5分だったものが,だんだん短くなってゆき,今では,幕内4分,十両3分,幕下2分と定められている。
(参考: 日本相撲協会のサイト
http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_joho_kyoku/shiru/kiso_chishiki/kisoku.html )
こうして,「午後6時まで」には,放送が,ちゃんと終了できるように工夫されている。
戻る
脚注6:
江戸時代から明治にかけては,力士の最高位は「大関」であった。
横綱が大関より上の最高位の力士であることを協会規定に明文化したのは,明治42年のことである。
この「横綱」は,かつては日本人だけがなっていたが,やがて,「曙」や「武蔵丸」(共に,米国ハワイ出身)などの外国人力士が活躍するようになり,現在では,モンゴル人が占める。
(参考: 日本相撲協会のサイト
http://sumo.goo.ne.jp/hon_basho/banzuke/banzuke.php?kaku=1 )
日本の「国技」なのに,こうした現象は,「嘆かわしい」と思う。
日本人の中にも,横綱になるような強い力士が出ることを期待する人は多い。
なお,横綱とは関係ない話であるが,力士の中には,他に,「ブラジル」「中国」「韓国」「ロシア」などから来ている人もいるようである。
「ブルガリア」(琴欧洲)は,ヨーグルトのCMにも出てるので,特に有名。
(参考: 日本相撲協会のサイト
http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_meikan/shusshinchi/index.html )
戻る
脚注7:
昭和28年以前は,本場所は,東京のみの3回であったが,その年には,「大阪場所」(3月)を加えて年4回となり,昭和32年には,「福岡場所」(11月)を加えて年5回,そして,昭和33年以来,「名古屋場所」(7月)を加えて,年6回となったそうである。
戻る
脚注8:
平安時代には,桓武天皇(かんむてんのう。奈良後期~平安初期の天皇。在位781年~806年)が延暦12年(793年)7月に,相撲を天覧した頃から,天覧相撲が毎年恒例となり,以来,朝廷の年中行事として制度化され,毎年盛大に行われるようになったようである。
「相撲の節会」(すまいのせちえ)が催されるのは毎年7月で,その準備のため,2月~3月には,左右の近衛府(「このえふ」)から「部領使」(ことりづかい)が諸国に遣わされ,
「相撲人(すまいびと)」(「力士」)が全国から召集された。
そして,7月に,全国から集まった相撲人(すまいびと)たちが左右に分かれて,約20番の取組が行われ,番付が決まる。
最強力士を 「最手」(ほて。後世の「大関」にあたる)と言い,次に強い力士を「脇」(わき。現在の「関脇」にあたる)と呼んだ。
そして,相撲人(すまいびと)は,犢鼻褌(たふさぎ。つまり,「ふんどし」「まわし」)の上に狩衣(かりぎぬ)を着,烏帽子(えぼし)をかぶって式場に入り,取組が始まると,衣を脱いで犢鼻(ふんどし)だけになったようである。
これは,今の相撲のやり方とほとんど変わらないが,しかし,興味深いことに,当時はまだ「土俵」というものはなく,ただ,「相手を倒せば勝ち」であったという。
やがて朝廷の力が衰えるにしたがって,「相撲節会」は中断することが多くなり,高倉天皇(たかくらてんのう。平安末期の天皇。在位1168年~1180年)が,承安4年
(1174年)7月に,相撲を天覧するのを最後に,400年に及ぶ「相撲節会」は,ついに途絶えた。
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脚注9:
「日本書紀」の原文は,以下のとおり。
「乙亥,饗百濟使人-大佐平智積等於朝.或本云,百濟使人-大佐平智積及兒-達率,闕名,恩率軍善. 乃命健兒,相撲於翹岐前」
このように,その日,百済(くだら。古代朝鮮の国名。4-7世紀,朝鮮半島の南西部に拠った国)の使者を「饗応(きょうおう)」(接待)されたことが記されているが,その際,健児(こんでい。奈良・平安時代の全国から選ばれた兵士。ちからびと)を召集して,相撲をとらせたことが記されている。
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脚注10:
「日本書紀」の原文は,以下のとおり。
「則當麻蹶速與野見宿禰令捔力」
ここでいう「捔力」(角力)とは,もちろん,「相撲(すもう)」のことである。
当麻蹶速(「たぎまのくえはや」「たいまのけはや」)と野見宿祢(のみのすくね)が,天皇の前で「角力」(相撲)を取って日本一を争い,野見宿祢が勝ったことが記されている。
これが,「角力(すもう)の元祖」であり,また,天皇がご覧になる「天覧(てんらん)相撲」の始まりであると伝えられている。
しかし,この日付(7年7月7日というふうに,「7」という数字が3つ並ぶ)が「作為的」に見えることから,一般には,これは「史実」ではなく,「伝説」であると解釈されている。
旧暦の7月は,稲の収穫を前にして農作業が一段落する時期なので,この話は,秋の豊作を神に祈願するために,相撲が 「奉納」されることが,7月の「神事」として一般的に行われていたことを反映したものである,と思われている。
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脚注11:
また,彼は,大和朝廷で葬式・陵墓・土器製作などを担当した土師氏(はにし)の祖であるとも伝えられている。
3世紀から6世紀ごろにかけての,地域の有力者が葬られた墓(古墳)の中から,「力士」の姿をした埴輪(はにわ)や,相撲をモチーフにした装飾付の須恵器(すえき。古墳時代後期から奈良・平安時代に行われた,大陸系技術による素焼の土器)の壺が出土し,当時すでに,相撲がかなり「普及」していたことを物語っているようである。
興味深いことに,須恵器の壺に飾られた人形には,相撲を取っている二人の他に,そばに「行司」らしき人物も立っているそうである。
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脚注12:
重要なことを決めるにあたり,「相撲を取る」ことによって,神の意志がどちらにあるかを知ろうとしたのである。
実際,多くの「祭り」や「祭礼」などの際には,「奉納相撲」(ほうのうずもう。神仏の祭礼などに,その境内で行う相撲)が行われたようである。
例えば,滋賀県野洲町御上神社には,左四つに組んだ二人の力士と行司の木造の人形が現存してる。
「秋祭り」の際に,この人形を神前に奉納してから「神事相撲」が行われたようである。
また,大分県中津市の古要神社には,神々を象った操り人形で相撲をとらせる行事が伝わっているそうである。
そして,石川県鶴来町にある,加賀白山本宮所蔵の「三宮古記」によれば,鎌倉時代の末から室町時代にかけて,「祭礼」の折に相撲が行われたことが記されている。
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脚注13:
この「四房」は,ただ単に,四隅を飾るための「飾り」ではなく,土俵の四方(東,南,西,北)の守護神として,四神が「祀られている」のだそうである。
それはまた,五穀豊穰を祈念しているとも言われている。
(参考: 日本相撲協会のサイト
http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_joho_kyoku/shiru/kiso_chishiki/mame/mawari.html#fusa )
吊り屋根ができる以前は,もちろん,「四本柱」が屋根を支えていたわけであるが,それぞれの柱には四色の布が巻いてあり,その4色(青,赤,白,黒)は,天の「四神獣」を表わし,「四房」と同様,土俵を守る意味と,五穀豊穰を祈念する意味で,四隅に「祀られて」いた。
青柱は,東方の守護神「青龍神」。
赤柱は,南方の守護神「朱雀神」。
白柱は,西方の守護神「白虎神」。
黒柱は,北方の守護神「玄武神」
である。
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脚注14:
例えば,新しく作った土俵の地鎮祭の儀式として,「土俵祭」というのを行うのだが,その時,行司は「祭主」として,土俵の安泰を祈願するのである。
その日,神官姿に威儀を正した立行司(大相撲で,行司の最高位)または,三役行司が「祭主」となり,脇行司2人が「清め秡い」をし,祭主(立行司)が「祝詞」(のりと。神をまつり神を祈るとき,神に向かって唱える古体の独特の文体を持ったことば)をあげた後,土俵四隅の「四房」(「天の四神」を表す)の下に神々に御神酒を捧げる。
五穀豊穣の祈りなどが込められている「方屋開口」(かたやかいこう)が行われ,最後に,「鎮め物」(地鎮祭に地中に埋める呪具)として六品(洗米・するめ・昆
布・塩・榧(かや)の実・かち栗)を土俵の中央に埋めて,御神酒をかけ,15日間の無事を祈る。
(参考: 日本相撲協会のサイト
http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_joho_kyoku/shiru/kiso_chishiki/kiso_yougo.html#dohyomatsuri )
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脚注15:
実際には,神ではなく,「み使い」「天使」と闘ったのである。
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脚注16:
「新世界訳聖書-参照資料付き」創世記32:28脚注参照。
「新改訳聖書―注解・索引・チェーン式引照付」の創世記32章28節の欄外注によれば,「イスラ」とは「戦う」という意味の語根「サラ」の派生語だそうである。
(「イスラエル」とは,
「(Israel)(ヘブライ語yisra’elは,神が支配する,神と競う,などの意)」
Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) © Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)©小学館 1988)
今日,私たちは,そのヤコブから生まれた子孫全体を指して「イスラエル人」と呼び,その人たちが1948年に建設した共和国を指して「イスラエル」と呼ぶわけであるが,現在では一つの「国民」や「国家」さえ表す名称が,実は,ヤコブが神のみ使いと「角力」(相撲)をした,という聖書物語に由来するのは,たいへん興味深いことではないだろうか。
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脚注17:
たとえば,「古事記」の「天地(あめつち)の初め」には,こう書かれている。
「天地初めて発けし時,高天原に成りし神の名は,天之御中主神,次に高御産巣日神, 次に神産巣日神。この三柱の神は,みな独神と成りまして,身を隠したまひき。
次に,国稚く浮ける脂の如くして,海月なす漂へる時,葦牙の如く萌え騰る物によりて成りし神の名は,宇摩志阿斯訶備比古遅神,次に,天之常立神。この二柱の神もみな独神と成りまして,身を隠したまひき。
上の件の五柱の神は別天つ神。
次に成りし神の名は,国之常立神,次に,豊雲野神。この二柱の神も独神と成りまして,身を隠したまひき。
次に成りし神の名は,宇比地邇神,次に,妹須比智邇神。次に角杙神,次に,妹活杙神。【二柱。】 次に意富斗能地神,次に妹大斗乃弁神,次に於母陀流神,次に妹阿夜訶志古泥神。
次に伊邪那岐神,次に妹伊邪那美神。
上の件の国之常立神より下,伊邪那美神より前を,并せて神世七代と称ふ。【上の二柱の独神は,各一代と云ふ。次に双へる十神は,各二神を合せて一代と云ふ。】」
(次田真幸「古事記 (上) 全訳注 講談社学術文庫 207」講談社,1977年。36ページ。)
このように,「古事記」には,神を表現する際,「この三柱の神は・・・」というふうに述べている。
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脚注18:
興味深いことに,愛媛県大三島(おおみしま)の大山祇(おおやまつみ)神社では,一人で相撲のさまをする「独り相撲」と呼ばれる「神事」が今でも行われている。
土俵に上がるのは一人で,相手はいない。
というより,私たち人間には,一人しか見えないが,一人で相撲のさまをしているようにしか見えないだけであり,実は,その時,その人は「見えない相手」(神)と相撲を取っているのである。
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脚注19:
この「阿吽」という言葉は,寺院の門の左右に控え,寺院を守護している「仁王像」(伽藍守護の神で,寺門または須弥壇の両脇に安置した1対の半裸形の金剛力士)に由来するとも言われる。
「仁王像」の場合,口を開けて息を吐いている阿形(あぎょう)と,口を閉じて息を吸い込んでいる吽形(うんぎょう)に作られている。
なお,この「狛犬(こまいぬ)」というのは,実は,「犬」のことではなく,獅子(しし),すなわち,「ライオン」である。
しかし,当然のことであるが,昔から,日本には「ライオン」という生き物は,野生にはいない。
ちなみに,佐伯好郎(さえき よしろう)博士は,「獅子(しし)」とは,秦氏(はたし)によって伝えられた「ペルシャ語」であると述べていた。
この点については,「日本に来た最初のキリスト教徒」という記事の,「八幡神社」について言及してる部分を参照。
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脚注20:
いのちのことば社の「新聖書注解」は,黙示録1章8節の注解部分で,その意味をこう説明している。
「アルファはギリシャ語のアルファベットの最初の文字,オメガは最後の文字である(→二一6,二二13)。
これは古代において,全存在を指すために用いられた表現法である(チャールズ)。
これは,神が無限であり,究極的な存在であることを示している。」
(「新聖書注解 (新約 3)」いのちのことば社,1972年。455ページ。)
脚注21:
これは,相撲の起こりは,「神占」(しんせん。神に祈って神意をうかがい,吉凶を予知すること)と深い関係があったことと調和している。
なぜなら,「当たるも八卦,当たらぬも八卦」というように,「八卦」とは,そもそも「占い」という意味だからである。
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脚注22:
この「ノコッタ」の説明は,「残った」という日本語の意味そのままなので納得できるが,「ハッキヨイ」は,「発気揚揚」という言葉がつまったもの,という日本相撲協会の説明には,いまひとつ合点がいかない。
それだったら,むしろ,「広辞苑」の説明するとおり,「八卦良い」という意味のほうが,まだましであると感じる。
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脚注23:
たとえば,そのほんの一例として,聖書のエフェソス2章14節(新世界訳聖書)には,
「キリストはわたしたちの平和であり,二者を一つにし,その間にあって隔てていた壁を取り壊した方なのです。」
とあるが,この「壁」に関して,「参照資料付き聖書」(ものみの塔聖書冊子協会,1985年)の脚注には,こう書かれている。
「「その間にあっ(た)……壁」。
字義,「中間の壁」。
神殿境内にあったもので,神聖なものとはされていない異邦人の崇拝者たちを隔てて,神聖なものとされていたユダヤ人の崇拝者だけに開かれていた奥の中庭に入ることを阻んでいた壁を指す。
ミシュナ(ダンビーの訳,1950年,592ページ)によると,その石の障壁は「ソーレグ」と呼ばれた。この壁は高さ1.3メートルであったと言われている。」
また,「実用聖書注解」(いのちのことば社,1995年)は,この「壁」に関して,こう述べている。
「〈隔ての壁〉.
エルサレム神殿の異邦人の庭とユダヤ人(婦人)の庭を仕切る壁.
そこには「異邦人は何人もこの聖域内に立ち入るべからず」というきよめの律法が提示されていた(ヨセフス).
主は聖所と至聖所の隔ての垂れ幕までも開いて下さった(参照ヘブ10:19‐20)」
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