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- イエスは,彼女の「自尊心」を傷つけなかった -
(「possibleの自由ノート」 2003年5月26日(月)の記述より)
聖書に記されている物語の中で,とりわけ私が昔から好きなものがある。
それは,
12年という長い間,「血の流出」を患っていた女性
の話である。
私は男だし,まだ結婚もしてないので,女性の体のつくりのことはよく分からないし,「血の流出」と聞いても,どんな病気なのかはよく分からないが,今で言えば,「婦人科」の治療が必要なものだったものだろうと思う。
この女性が出てくる話は,その一つ一つの記述が,私の心を打つ。
少し長いが,マルコの記述から引用してみる。
「ところで,十二年のあいだ血の流出を患っている女がいた。
26 彼女は多くの医者にかかってはいろいろな苦痛に遭わされ,自分の資産をすべて使い果たしたのに益を受けることもなく,むしろよけいに悪くなっていた。
27 イエスのことを聞いた彼女は,群衆の中でその後ろから来て,彼の外衣に触った。
28 「あの方の外衣にただ触るだけで,わたしはよくなる」と言いつづけていたのである。
29 すると,彼女の血の元はすぐに乾き,彼女はその悲痛な病気がいやされたことを体で感じ取った。
30 またイエスも,力が自分から出て行ったことをご自身のうちですぐに認め,群衆の中で振り返って, 「だれがわたしの外衣に触りましたか」と言いだされた。
31 ところが弟子たちは,「群衆が押し迫って来るのを見ておられますのに,『だれが触ったか』と言われるのですか」と言いだした。
32 しかし[イエス]は,そのようにした者を見ようとして周囲を見回しておられた。
33 いっぽう女は,自分の身に起きた事を知り,恐れとおののきのうちにやって来て,彼の前にひれ伏し,すべてのことをありのままに話した。
34 [イエス]は彼女に言われた,「娘よ,あなたの信仰があなたをよくならせました。平安のうちに行きなさい。そして,あなたの悲痛な病気から解かれて健やかに過ごしなさい」。」
-マルコ 5:25‐34。[新世界訳聖書]
かつて,この話は,「最も偉大な人」の書籍で学んだ。
エホバの証人なら,書籍研究で何度も学んだし,よく知ってると思う。
その本の第46話に出てくる。
その挿絵は,非常に印象深いものである。
特に,その女性の顔が。
その書籍に書いてあるが,
「その病気は口にするのもはばかられる,恥ずかしい病気」
だったと説明されている。
そして,律法によれば,彼女は
「汚れた者」
とみなされていた。
このことが,彼女の「女性」としての「自尊心」をどれほど傷つけたことだろうと私は心配する。
彼女はどうしても治りたかったのだろう。
だから,彼女は,何度も医者に通った。
原語では「医者」と訳されているギリシャ語は「複数形」だし,「多くの」と書いてあるから,いろんなところに治療に行ったのだと思われる。
そして,そこでは「いろいろな苦痛」に遭わされたとある。たぶん,非常に辛いこともあったのだろう。
その中には,体の苦痛だけでなく,精神的な苦痛もあったろう。
婦人科にかかるような病気だし,どうしても「下(しも)」のほうの病だから,きっと「恥ずかしい」と思う治療などもあったかもしれない。
それに,律法では,彼女は「汚れた者」だった。
彼女に触れる者は,みんな,汚れた者とされてしまった。
だから,もう何年も,彼女の「手に触れて」あげる人も,彼女を「抱きしめて」あげる人もいなかった可能性がある。
彼女が結婚していたのかどうかは私には分からないが,彼女がまだ結婚していなかったとすれば,そんな状態では,結婚も望めなかったろう。
「結婚したい」と思っても,一人の女性として男性から「愛されたい」と思っても,そんな状態の体では,それは非常に難しかった。
だから,彼女はあきらめなかった。
何度も,そして,何年間もあきらめずに医者に通ったし,「あそこに名医がいる」と聞けば,高いお金を払って治療しに行ったことだろう。
でも,12年間,その病気と闘ってきて,だんだんお金も底をついてきて,しかも,前よりも「むしろよけいに悪くなっていた」と聖書は述べる。
そんな時に,彼女はイエスの噂を耳にする。
その時の彼女の気持ちを,聖書は次のように述べる。
「「あの方の外衣にただ触るだけで,わたしはよくなる」
と言いつづけていたのである」
と。
マタイの記述によれば,そのように
「自分に」(字義,「彼女自身に」)
言いつづけていた,と記されている。(マタイ9:21)
そう。彼女は,何度も「自分に」こう言い聞かせたのだ。
「必ずよくなる」
と。
私は,病気の時には,この気持ちが絶対必要だと思ってる。
たとえば,ガンにかかってしまった人が,「自分はもうダメだ」とあきらめてしまった時,もう,その病気に負けてしまったと私は思う。
とっても難しいことだけど,それが真実なのだ。
しかも,彼女の場合,単に,自分はよくなると思っただけではない。
新世界訳のギリシャ語動詞の注意深い訳し方によれば,彼女は,そう言い「つづけて」いたのだ。
何度も,何度も,自分に対して「必ずなおる」と言い“続け”たのだ。
そう,自分の心に言い聞かせながら,彼女はイエスの衣に触れた。
すると,「すぐに」「いやされた」と聖書は述べる。
「奇跡」が起きたのだ!
彼女は,群衆に気づかれないようにしていたが,イエスが自分の中から力が出て行くのを感じ,イエスが,「だれが触ったのか」と言われたため,ついに彼女は,自分が触ったことを「群衆の中で」認める。
それだけ多くの人たちが見てる中で,「口にするのもはばかられる,恥ずかしい病気」のことを「正直に」話したのである。
それが,どれほど恥ずかしく,勇気の必要だったことか。
この時の彼女の気持ちを思うと,心がぎゅっと締めつけられる。
この時のイエスの反応は,非常に興味深いものがある。
律法に書かれているとおりに行動しなかった彼女を,イエスは,少しも責めなかった。
彼女の心を傷つけるようなことは,一言も言わなかった。
むしろ,非常に優しく,こう言われたのである。
「娘よ,あなたの信仰があなたをよくならせました。
平安のうちに行きなさい。」
と。
この記述に関して,「ものみの塔」誌は,こう述べる。
*** 塔95 7/15 16ページ クリスチャンの女性は誉れと敬意に価する ***
イエスが女性に直接,「娘よ」と呼びかけたのはこの時だけです。
その言葉は彼女の心をどんなにか安心させたことでしょう。
イエスが女性に対して「娘よ」と直接呼びかけたのは,この時“だけ”だ言う。
しかし,さらに興味深いのは,この
「娘よ」
と訳されているギリシャ語の意味である。
ギリシャ語の辞典によれば,このギリシャ語は,日本語では
「お嬢さん」
とも訳せるのだという。
「お嬢さん」。
そう,イエスは彼女に優しく語りかけた。
12年間という非常に長い間,血の流出を患い,その病気と闘いつづけ,人からは「汚れた者」とみなされ,一人の「女性」としての「自尊心」を,その時にはすっかり失ってしまっていたかもしれない彼女に,イエスは優しくそう述べた。
イエスは,彼女の「自尊心」を傷つけるようなことは一言も言われなかった。
むしろ,彼女の「自尊心」を高めたのである!
(注:
「マリア・マグダレネは,イエスのことが好きだったのか」という記事の「脚注15」の説明も参照。)
そして,こう言われた。
「あ・な・た・の・信仰が」あなたをよくならせました
と。
「お嬢さん!」
そうイエスが言われた時,12年という長きにわたり,血の流出を患っていたこの女性は,いったい何歳だったのだろうか。
20代だったろうか。
いや,あの「最も偉大な人」の挿絵では,そうは見えない。
30歳。あるいは,40歳,あるいは,もっと上だったろうか。
もしかしたら,「12年」という長い年月が経つうちに,もう「お嬢さん」とは呼ばれる年齢ではなくなっていたかもしれない。
でも,私には,この一言だけで,イエスのやさしさが,ものすごい伝わってくる。
男性だってそうだが,女性だって,「おばさん」と人から言われるよりは,
「おねえさん」
と言われたほうが嬉しいだろう。
他人の子供から,「おばさん」と呼ばれれば,まだ怒る人だっているかもしれない。(笑)
自分は,この点を,十分気を付ける。
家から家の野外奉仕の時,おばあさんに見える人が出てきても,
「おばあさん」とは,私は絶対言わない。
「おくさん」である。
たとえ,相手が100歳のおばあちゃんでも,そうである。
また,まだ結婚してない女性に「おくさん」と言わないように特に気を付ける。
自分も,「まだ結婚もしてないのに」(強調),人から「ご主人」と言われると,気分が悪くなるからだ。
会衆の実演で,家の人を演じる時も,奉仕者の人が,「ご主人さんは,どう思われますか?」などと言うのも,口には出さないが,腹が立つ。
だから,相手が結婚してるかどうか分からない時には,「失礼ですが,奥様ですか?」と相手に聞く。
それで,相手が結婚してる(主婦)と分かってはじめて,「おくさんは・・・」と呼びかけられるのである。
ところで,イエスが言われた,「娘よ」と言う言葉を聞いてもギリシャ語を調べるまでの私は何とも思わなかったが,そのギリシャ語は,日本語では
「お嬢さん」
とも訳せると聞くと,心を動かされるのは私だけだろうか。
この点,やはり,翻訳というのは大事だと私はつくづく思う。
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